「殺戮の国のアリス」番外編
異端のカナリア
 
  カナリアは繊細で敏感な鳥だ。
 美しい歌声と鮮やかな体色で人を楽しませる愛玩鳥として知られるが、もう一つ、よく知られた利用法がある。
 坑道などに連れて行かれるカナリアは、生きた毒ガス検知器だ。
 鈍感な人間が気づかない些細な異常に、彼らは真っ先に気づく。そして哀れな歌姫は、その命をもって危険を知らせるのだ。

 これは、そんなカナリアの姫君の物語。


 オルガンダル家の娘、リドリアーディアの噂は狭い田舎にとどまらず、ロンドンの社交界でも話題に上るほどだった。
 まだ社交界にも顔をだしたことのない、若干十一歳の少女ではあったが、その類稀なる美しさと気立てのよさは、すでに注目の的であったのだ。
 だが当の彼女は都会の社交界に興味はなく、豊かな自然に恵まれた田舎暮らしに満足していた。
「ハンナ、お父様はもう近くまでお戻りになったかしら?」
 暖かな陽光の差し込むバルコニーに身を乗り出しながら、少女は大粒のサファイアのような瞳を輝かせていた。
「そうですね、そろそろお時間かと思いますよ、お嬢様」
 問いかけられた古参の使用人の女は、はやる気持ちを抑えられない少女の無邪気さに顔をほころばせて答えた。
「あっ、見えたわ! お父様の車よ、ハンナ。急いでお迎えに行かなくちゃ」
 地平線の彼方まで見通せるなだらかな丘を突っ切るように舗装された田舎道に現れた車の影を、彼女は見逃さなかった。
 喜びの声をあげて少女が身を翻すと、黄金の糸のように細く艶やかな彼女の髪がふわりと踊る。
「まあ、そんなにお急ぎにならなくとも、大丈夫ですよ。お屋敷の前まではもう少しかかりますからね」
「わかってるわ、でも、真っ先にお出迎えしたいのよ」
 歌うようにそう言って、少女はドレスの裾を取り、階下へと駆けてゆく。
 仕事でロンドンまで出かけていたオルガンダル氏がこの屋敷に戻るのは、実に一ヶ月ぶりのことである。
 母を早くに病で亡くした世間知らずの少女にとって、父親は世界のすべてに等しい存在なのだ。待ち焦がれたその帰還に少女が浮き足立つのも、無理はない。


 ようやく車が屋敷の前に到着した時、ロータリーにはオルガンダル家の兄妹が並んで顔を揃えていた。
 四歳年上の兄、エヴァンデールは妹の剣幕に押されて引きずり出されたような格好だった。それでも、めかしこんだ妹にあわせてきちんとタイを結んでいるあたりが、少女がこの家の中心であることをうかがわせる。
「おかえりなさい、お父様!」
「ただいま、リディ。ずいぶんお洒落をしているね」
「だって、お父様をお迎えするんですもの」
 お気に入りの桃色のドレスに身を包んだリディは、父親が車から降りてくるなり抱きついた。
「おかえりなさい、父上」
「エヴァンデール、元気そうで何よりだ。また少し背が伸びたか?」
 オルガンダルは続いて、眩しそうに息子を見つめて微笑んだ。
「あら、お父様、なかにまだ誰かいるの?」
 旅の荷物が次々に降ろされていくのを興味深そうに眺めていたリディが、車のなかの小柄な人影に気づいてかわいらしく小首を傾げた。
「ああ、そうだ。お前たちに紹介したい子がいるんだよ。出ておいで」
 オルガンダルの呼びかけに応じて、人影は軽やかな足取りで車から降り立った。
 それは少年だった。かなり痩せ気味だが、華奢な印象は受けない。秀でた骨格を感じさせる、美しい少年だ。
「お父様、この子は誰?」
 人見知りするように父親のコートの裾を握り締めながら、リディはおそるおそる少年を観察した。
「リディ、そんな風に怖がってはいけないよ。彼は今日から、私たちと一緒に暮らすのだから」
 鷹揚にそう言って、オルガンダルは少年の肩を抱いてみせた。
「父上、それは……?」
 エヴァンデールが戸惑ったように言葉を濁す。親戚にこのような少年がいるという話はこれまで聞いたことがないし、まして、父が今回の仕事で子どもを連れ帰るなどという話は彼も聞かされていなかったからだ。
「さあ、いつまでも立ち話というのは具合が悪い。詳しいことはなかで話そう。ハンナ、お茶の準備を」
「はい、旦那様」
 女使用人は久しぶりの主人の命に頭を垂れ、その指示に従って邸内に姿を消した。
「さあ、なかに入ろう」
 そう言って、見知らぬ少年の肩を抱いたまま屋敷に入っていく父をリディは不安げに見上げた。
「よろしく」
 そんなリディに、少年はにっこりと快活に微笑んでそう語りかけた。
 その声に、リディははっとして顔を上げる。はじめて聞く少年の声は、不思議なくらい自然に彼女のなかに滑り込んできたからだ。
「え、えと、あの……よろしく」
 消え入りそうな声で返された少女の挨拶を、不思議な少年は太陽のように明るい笑顔で受け止めた。


 少年の素性は少々変わっていた。
 流行り病で両親を立て続けに亡くし、他に身よりもない少年は、まさに孤児院に入所するところだったのだという。
 オルガンダルとの出会いは偶然だった。
「とにかく、笑顔が印象的でね。不幸な境遇でも笑顔を忘れない、それがかえって不憫に思えたんだよ」
 ハンナのいれた紅茶を楽しみながら、オルガンダルは子どもたちにそう語った。
「これからは彼を本当の兄弟と思って、仲良くするんだよ」
 当初、エヴァンデールはすぐには納得がいかないという顔をしていたが、リディの決心は簡単だった。
大好きな父親の言いつけに従うのに、理由なんていらないと彼女は考えていたからだ。
「ねぇ、一緒に本を読まない?」
 ある日、使用人たちに混じって庭仕事をしていた少年に、リディはそう声をかけた。
 胸には、父親から贈られたお気に入りの物語を抱きしめている。
「君が読んできかせてくれるならいいよ」
 その言葉に、リディは面食らってしまった。彼女はいつも本を読んでもらう側で、誰かのために朗読してみせることなどなかったからだ。
「どうして?」
「僕は文字が読めないから」
 少年は恥じ入ることもなく、ひどくあっけらかんとそう言った。
 その答えに、リディははっとして押し黙る。少年はいつも陽気で、屋敷の人々にもすぐに溶け込んでしまったから、時々忘れてしまいそうになるのだ。
 だから、時折こうして少年の背負う不幸を垣間見て、リディは言葉をなくしてしまう。
「あ……」
「読んでくれる?」
 不用意なリディの言葉を気にした様子もなく笑う少年にむかって、リディはこくこくと必死で頷いてみせた。


「すごく上手だね、リディ。面白かったよ」
「もう、お世辞はやめてよ」
 気持ちの良い風の通り道になっている丘の上で、リディと少年は並んで座っていた。
 読み終えたばかりの本を膝に置き、リディは顔を真っ赤にして膨れている。
「お世辞なんかじゃないよ」
「嘘。だって私、何度もつっかえたわ」
「そんなの、全然気にならないよ」
 少年があまりにまっすぐに褒め称えるので、最初は悔しがっていた負けず嫌いの少女の機嫌も、少しずつなおっていくようだった。
「あなたは、読み書きできるようになりたいと思う?」
「そりゃあね。だけど、こだわりはないよ。勉強もいいけど、毎日の仕事をまずは片付けないと、生きていけないし」
 読書の時間が終わっても、二人の時間は終わらない。
 今のリディはレディのたしなみもなんのその、この少年に聞いてみたいことで頭がいっぱいなのだ。
「働いていたの? でも、あなたまだ子どもなのに」
「僕はもう十四だよ」
「お兄様は十五歳だけど、お勉強ばかりなさってるわ」
「ああ、そうだね」
 リディの反論をあっさり受け入れて、少年は手近な花を摘みはじめた。
「だけど、うちはここのお屋敷みたいにお金持ちじゃなかったからね」
 恥じることも怒ることもなく、他人事のように淡々とそう言って、少年は摘んだ花を器用に編みはじめた。
「……あの、ごめんなさい、私……」
「気にしないで、本当のことだから。それより、ほらリディ」
 あっという間に編み上げてしまった小さな花冠をリディの頭に乗せて、少年は満足そうに笑った。
「綺麗なブロンドだから、白い花がよく似合う」
「あ、ありがとう」
「どういたしまして」
 そこで、会話が途切れてしまった。
 少年はいつもリディの話に耳を傾け、どんな質問にも答えるが、彼のほうから話題をふることはほとんどなかった。
 それでも別に沈黙が苦にならないのか、今度は首飾りでも作るつもりだろうか、長々と花を摘んでは編みこみ続けている。
 驚くほど器用で手際のいいその動きにリディも思わず見とれてしまうが、こちらはやはりおしゃべり好きのお嬢さんだ。
「こんなこと、きくべきじゃないかもしれないけれど……」
 沈黙を破るため、リディはきわどい話題を思い切って口にした。
「なんだい?」
「……悲しくないの?」
 ひどく言いにくそうに問いかけるリディの方が、悲しそうな顔になっている。
 それを見て、少年はいつものようににっこりと笑った。
「お父様も、お母様も死んでしまったんでしょう……?」
「うん」
 こともなげに頷いてみせる少年に、リディは大粒のサファイアの瞳を一層大きく見開いた。
「私は、私はとっても悲しかったわ。お母様が亡くなったとき、私はほんの小さな子どもだったけれど、それでも何週間も泣きとおしだったって、ハンナが言っていたもの」
「リディは優しいね」
 そう言って、少年は嬉しそうに笑う。微笑みではない、ぱっと花が咲いたような明るい笑顔だ。
 リディはわけがわからなくなって、声を高くした。
「そんな、あなたは本当に悲しくないの!?」
「さあ、よくわからないけど、悲しい気持ちは今の僕には全然ないよ」
「嘘よ、そんなの、おかしいもの!」
 怒ったような声をだしてしまったことに自分でも驚いたのか、リディは口をつぐんで俯いた。
「ごめんよ、リディ。でも、本当なんだ。二人とも僕の前からいなくなったけど、それは本当にそれだけのことだから。死ぬってことは、つまり、いなくなるってことだろ。別に特別じゃないよ」
「だけど、死んでしまったらもう会えないのよ」
「うん、でも別に、いなくなった人とわざわざ会うこともないよ。世の中にはこれだけたくさん人がいるんだし」
「そんなの、そんなの変だわ! だって、お父様やお母様は特別だもの、他の誰かがいたって、そんなの関係ない」
 リディはもうほとんど泣きだしてしまいそうだった。
 悲しくて泣くのか、怒っているのか、彼女自身にもよくわからない。だが、少年の言葉が理解できなくて、リディの心はどうしようもないほど高ぶりはじめていた。
「じゃああなたは、もしお父様やお兄様、それに私が死んでしまっても、ちっとも悲しいと思わないっていうのね!」
「それは、死んでみないとわからないよ。あ、ほら、今度は首飾りができたよ、リディ。アクセントに紫色を入れてみたけど、どうかな?」
 リディの動揺などまるで気づいていないように機嫌よく、少年は完成させたばかりの花飾りを掲げて見せた。
「こんなの、いらない!」
 もうリディは限界だった。あまりに無神経で、理解できない少年の言動のせいで、穏やかで満たされた午後のひとときは台無しにされてしまったも同然だった。
 差し出された首飾りの大きな輪を断ち切るように手で振り払い、少女は怒りに満ちた眼差しで少年をにらみつける。
「あなた、絶対変よ! 大嫌い!」
「僕なにか悪いことでも言ったかな。ごめんよ、リディ」
「もう、知らない!」
 ついにリディは駆け出した。
 少年を一人丘の上に残し、淡い橙色のドレスの裾を翻して、屋敷の方に駆けてゆく。
 かわいそうに地面に落とされてしまった花の首飾りを拾い上げて、少年は慌てることもなくその後姿を見送った。
「うーん、紫色より、黄色の方がよかったのかな?」
 的外れな反省を口にしながらも、少年はまだ弾けるような笑顔のままでいる。


 夕食のあと、眠りにつくまでの時間は、オルガンダル家の子どもたちにとって、父親と過ごせる数少ない機会だ。
 仕事で長期の旅行に出かけることの多いオルガンダルだが、先日の旅で大きな仕事を片付けたこともあり、今は久しぶりに子どもたちとの時間を持つことができている。
 そして今夜も、暖かな灯りに包まれた居間の居心地のいいソファに深く身をあずけ、オルガンダルは息子の勉強をみてやっていた。
「お兄様はまだお勉強中?」
 いつまで経っても父親を独り占めしている兄に、リディはかわいらしく唇をとがらせて、じれたようにそう問いかけた。
「もうちょっと待ってくれよ、リディ。今のうちにいろいろと父上に質問しいておきたいことがあるんだ」
「わかってます。でも、お兄様ばっかりずるいわ。私だって、お父様とたくさんお話したいのに……」
 わがままを言っていることはわかっているので、リディの声は小さい。
 それでも、思っていることを言わずにはいられないくらい、彼女の我慢は限界だった。
「そうだな……そうだリディ、あの子はどうした?」
「ああ、彼なら台所でハンナの手伝いをしてるはずですよ。手先が器用で、覚えがいいから助かるって、もうすっかりハンナのお気に入りだから」
「また手伝いか。やれやれ、あの子はお前たちと同じようにうちの子どもなんだから、そんな仕事をすることはないんだが……リディ、ちょっと行って、彼を呼んできてあげなさい」
 名案を思いついたというように、オルガンダルは笑顔でリディに声をかける。
「えっ、でも……」
 当のリディは、困ったようにお茶を濁すばかり。
 なにしろ、今日の午後、考え方の違いをめぐってぶつかってしまったばかりなのだ。
「どうかしたのか、リディ?」
「お父様……私……」
 長い金髪に顔を隠すように俯いて、リディはおずおずと言葉を継いだ。
「私、あの子が怖いの」
「怖い? どうしたんだリディ、なにかあったのか?」
 穏やかでない話のなりゆきに、書き物を続けていたエヴァンデールも顔を上げた。
「まさか、リディ、そんなのはどうかしているよ。彼は本当に素晴らしい人間だよ」
 少年が突然やってきた直後は慎重だったエヴァンデールも、今では生まれた時から一緒に暮らしてきたかのように少年を信頼している。
 エヴァンデールだけではない。少年はその底抜けに明るく魅力的な笑顔と、どんな仕事も嫌がらず、すすんで手助けを申し出る性格のおかげで、屋敷中のみなから愛される存在となっていた。
 リディも、今日のことがなければ、彼のことが手放しで大好きなままだっただろう。
「だって、だってあの子、言ったんだもの! お父様とお母様が亡くなっても、悲しくないって。そんなの、変だわ。絶対、変だわ!」
 揺れる灯りのうつりこんだ、リディの大きな瞳がしっとりと濡れている。
 みなが愛する少年に向かって、自分がとてもひどいことを言っているような気がして、彼女は涙を堪えることができなかった。
「リディ」
 興奮した娘を落ち着かせたのは、オルガンダルの低く抑えられた穏やかな声だった。
「リディ、お前はまだ小さいからわからないのかもしれないね。誤解してはいけないよ。彼は本当に悲しんでいないわけではないんだ」
「そう、なの?」
「そうだよ。彼だって本当は悲しいし、とても辛いに決まっているだろう? それでも、あの子は笑っている。みんなのことを気にかけて、楽しませてくれる。それは、彼がとても強い人間だからだ」
 ゆっくりと、一言一言をかみ締めるようにしてオルガンダルはリディに語りかけた。
「強い……」
「よく聞いておくれ、リディ。私があの子とはじめて出会ったとき、彼は一人で教会の墓地の入口に座っていたんだ。ちょうどご両親の埋葬が終わったところでね、彼はきっとその場から離れがたかったんだろう」
 娘の心を溶かすため、オルガンダルは少年との出会いをきちんと伝えるべきだと考えたのだ。
 リディもこれには興味を持って、いつしか涙のひいた瞳で、じっと父の顔を見つめた。
「たった一人で……?」
「そう、たった一人で。その時、彼はどんな顔をしていたと思う?」
「きっと、すごく辛かったんじゃないかな……」
 自分が母を亡くした時のことを思ってか、エヴァンデールは沈痛な面持ちだった。
「泣いていたの?」
 その状況を想像して、リディはまた泣きそうな顔になる。
「いいや、どちらでもないよ」
 オルガンダルはゆっくりと首を左右にふり、言葉を続けた。
「彼は、その時も笑っていた。いいかい、一番辛いときに笑うことができる人間は、一番強い人間だよ。二人とも、よく覚えておきなさい」
「はい、父上」
 驚きと敬意の入り混じった瞳で、エヴァンデールはまっすぐに頷いた。
「リディ?」
「はい、お父様」
 しばし、ぼうっとしてしまったリディは、慌てて応じてみせる。
 父親の話をきいて、少年を理解できないという思いは確かにやわらいだ。それでもどこか、心のどこかにひっかかったトゲのような何かを、彼女は消し去ることができずにいた。


 翌朝、珍しいことが起きた。
「ハンナ、あの子は?」
 家族みんなで囲む朝食のテーブルで、木苺のジャムが塗られたトーストを受け取りながら、リディはハンナにそう問いかけた。
「朝起きてこなかったので部屋の前で声をかけたんですがね。どうやら、具合が悪いようですよ」
「それは心配だな。ハンナ、医者を呼ぼうか?」
 フォークを置いて、オルガンダルは心配そうに眉根を寄せた。
「ええ、あたしもそう思っていろいろ聞いたんですが、本人は一日休めば大丈夫だっていってきかないんですよ。最初はあたしを部屋にも入れたがらなかったんですが、ほうっておくわけにもいきませんでしょう? だからなんとかなかに入って熱もみましたけど、熱はないみたいでしたし、思ったより声はしっかりしてましたからね、たぶん、疲れがでたんじゃないかと思いますよ」
「そうか……それなら、少し様子を見た方がいいだろうな」
 オルガンダルの言葉で、この件は片がついたはずだった。
「……あの、私」
 まだ半分も食べていないトーストを白磁のプレートの上に置いて、リディは思い切ったように口を開いた。
「私、あの子のお見舞いに行ってもいいかしら?」
「ああ、リディ。お前は優しい子だね。行っておあげ。でも、彼にあまり無理をさせてはいけないよ」
「はい!」
 ぱっと表情を明るくした少女は、弾かれるように席を立つ。
 その落ち着かない様子に、食卓の人々の顔がほころんだ。
「お嬢様、もうご朝食はよろしいんですか?」
「ええ、だってきっとあの子、おなかを空かせているはずだもの。ハンナ、あの子の分の朝食を用意してくれる? 私がお部屋まで持っていくわ」
「はい、ただいま」
 いつになく早口のリディの頬が、薔薇色に紅潮している。
 やはり彼女なりに、昨日のできごとが気になっているのだ。丘で感じた違和感は完全には拭いがたいが、それでも父親に諭されて、彼女の少年への気持ちは申し訳なさに傾いていた。
 もし少年が臥せっているのに自分の言葉が関わっていたら、と思うと、優しい少女はいてもたってもいられないのだった。


扉の前で大きく深呼吸。
 リディは騒ぎ立てる己の胸を必死でなだめすかして、少年が休む部屋の扉をノックした。
「……ねぇ、起きてる?」
 ノックには反応がない。
 リディはおずおずと扉越しに声をかけた。
「おなかが空いているでしょう? あなたの好きな蜂蜜パンを持ってきたのだけど」
 ハンナが用意した朝食の乗った盆は、リディの華奢な腕にはかなり負担だ。
 それでも彼女は、ハンナの助けを断り、自分自身で運ぶことにこだわった。
「……入ってもいい? 嫌ならそう言って。そうじゃないなら私、お話がしたいの」
 いつまで待っても返事がないことにしびれをきらし、彼女はついにそう問いかけた。
 拒絶への不安に胸が張り裂けそうになりながら、リディは待つ。
 そして、やはり答えはなかった。
「それじゃあ」
 リディはそっと扉に手をかけた。
 片手を盆から離すことになり、その上にあるものをうっかり落としてしまわないように気を引き締める。
 そして彼女がようやく足を踏み入れた室内は、朝だというのに真っ暗だった。
「……眠ってるの?」
 カーテンが締め切られた暗い部屋の奥、ベッドの上の人影が身じろぎするのが見えた。
 どうやら、眠ってはいないようだ。
「カーテン、開けてもいいかしら?」
 なんとか無事に運びきった朝食をベッドサイドのテーブルに置いて、リディはカーテンに手をかけた。
「……やめて」
「!?」
 地を這うような低い声が一瞬誰のものかわからなくて、リディは身を硬くした。
 反射的に声の方にふりむいた彼女は、はじめて目にする少年の姿に言葉を失った。
「……大丈夫?」
 少年の顔には、いつものような笑顔のかけらすらない。
 なんとかベッドから身を起こしたものの、恵まれたその身体を毛布にしっかりと口元までくるみ、唯一のぞかせた目はただ床の一点を見つめている。
 もちろん、リディと目をあわせようとすらしない。
「だめだ。全然だめなんだ」
 少年がこんな沈みきった声で喋る姿など、リディはまったく想像できなかった。
 もう何ヶ月も一緒に暮らしてきたはずなのに、目の前の存在がまるで知らない相手にすら感じられて、リディの足がすくんだ。
「どうして……?」
「……」
 何故、という問いに答えを用意することすら辛いのか、少年はしんどそうに顔を背け、沈黙した。
 どんなときも快活に話し、奉仕の精神に溢れていたはずの彼はどこへ行ってしまったのだろう?
「あの……ごめんなさい。私、昨日あなたにひどいことを言ってしまったわ」
「……」
 少年は答えてくれない。
 リディは泣きそうになりながら、それでもぐっと涙をこらえて続けた。
「お父様から、あなたのこと教えてもらったの。私、きっと誤解してしまっていたと思うの。だから……その……もし、あなたが私のせいでそんなふうに」
「……違うよ」
 必死で言葉を紡ぐリディの哀れさがさすがに伝わったのだろうか、ようやく少年は短い否定で彼女を慰めた。
「……え?」
「ずっと前から、なんだ……時々、こうなる。僕は……どうしようもなく罪深くて、価値がなくて……」
「そんな、そんなことないわ!」
 一言紡ぐのも辛そうな声で、自らを傷つけていく少年の言葉に耐えられなくなって、リディは少女らしく通る声で叫んでしまう。
「……!」
 いつもなら誰もが耳を傾け、目を細めるその清らかな声も、今の少年にはあまりに苛烈に傷をえぐるものなのだろう。
 憂鬱に支配された瞳が揺れて、眉根がぎゅっとひそめられた。
「あ……ごめんなさい」
「……もう、行って」
 限界なのだろう。少年は倒れるようにベッドにその身を横たえた。
「一人にしておいて」
「……ええ」
 限界を迎えていたのはリディも同じだった。
 すくんでしまっていたはずの足が、不思議に言うことをきく。それほど、彼女はここから逃げ出してしまいたくてたまらなかったのだ。
 おぼつかない足取りで転んでしまいそうになりながら、彼女は少年の部屋を逃げ出した。
 廊下にでるなり扉を後ろ手に閉めて、そのまま床に崩れ落ちる。
「どう、して……?」
 来た時よりもずっと激しくざわめく胸を落ち着けたくて、レースでたっぷりと飾られたブラウスの胸元を両手で掴む。
 薄い胸を何度も何度も動かして、必死で呼吸を整えた。
「こわい……こわいよ……なんで……」
 とどめようとしても無理だった。
 奇妙に冷たい涙があとからあとから頬を伝う。それでも、泣き声はもらさなかった。
 そんなことをすれば、部屋のなかで自らを憎み続けている少年に聴こえてしまうかもしれないから。


 ハンナの愛情がこもった手入れの行き届いた自室のバルコニーに身を預け、リディはぼんやりと午後を過ごしていた。
 ほんの数ヶ月前、ここで父親の帰りを待ちわびていたことがまるで遠い昔のことのように思える。
「お嬢様、お茶をお持ちしましたよ」
 ノックとともに扉の向こうからかけられたハンナの声で、リディははっと我にかえった。見上げれば、頭上の太陽はだいぶ西に傾きつつある。
「ええ、はいって」
 かすんでしまった頭をすっきりさせるのに、ハンナのいれてくれる紅茶はきっと役に立つだろう。
 開け放していた窓を閉じて、リディは女使用人を迎え入れた。
「旦那様が心配されていましたよ。今日はあの子だけではなく、お嬢様まで引きこもってしまわれたと」
「ごめんなさい、ハンナ。でも私は大丈夫よ。ちょっと疲れてしまっただけなの」
 差し出された白磁のティーカップの温かさを確かめるように両手で包み込みながら、リディは微笑もうとした。
「あの子にお会いになったんでしょう?」
「ええ……でも、思ったよりずっと調子が悪いみたいで」
「あまり気に病まないことですよ。お嬢様のせいではないんですから。ほら、焼きたてのクッキーもお持ちしたんですよ」
 曇りがちな少女の表情を少しでも明るいものにするために、ハンナが用意した作戦は甘くて香ばしいお茶菓子たちだった。
 だが、リディの大好物ばかりがならぶ銀色の盆を前にしても、まだ彼女はうまく笑えない。
「本当に、私のせいじゃないのかしら?」
「もちろんですよ」
「でも……私、おかしいのよ」
 ためらいがちに手をのばしてクッキーをつまみ、リディはそれをかじることもなく見つめながら言葉を継いだ。
「あの子といると、胸が騒ぐの。どきどきして、つらくって……でも、離れているともっとつらくなるの」
「なんですか、そんなことですか」
「そんなことって、ひどいわ、ハンナ!」
 必死の思いで言葉にした胸のうちを一蹴されたような気がして、リディはぱっと頬を赤らめて抗議した。
「すみません、お嬢様。ですがそれは本当に、簡単なことなんですよ」
「簡単? なにが言いたいのか全然わからないわ」
 リディが拗ねてみせても、ハンナはにこにこと微笑むばかりだ。
 しかもその笑顔はどこかいつもより含みがあって、リディを妙に落ち着かない気分にさせる。
 ハンナはそんなリディの反応が微笑ましいのか、もったいぶって口をつぐんだ。
「……どういうことなの?」
 根負けしたのはもちろんリディだ。
 口調だけはツンとしたものを保っているが、嘘のつけない大きな瞳は、まっすぐにハンナの答えを期待している。
「お嬢様は、恋をなさっているんです」
「えっ」
 満を持して放たれたハンナの言葉に、リディは文字通り絶句した。
「あの子のことが、好きになってしまわれたんでしょう?」
「そんな……それは、もちろん好きよ。でもそれはお父様やお兄様と一緒で……」
「本当にそうですか?」
 今日のハンナはとても意地悪だ、とリディは思う。
 こんな風に聞き返されてしまえば、自分の気持ちについてもう一度考えてみざるをえないではないか。
「旦那様や若様のことをお考えになって、そんな風に胸が苦しくなることが、今までおありになりましたか?」
「それは……たしかに、そんなことはなかったけれど……」
 これまで、リディにとっての恋は、物語のなかに登場する夢のようなできごとだった。
 それは甘くて、優しくて、ときに切なくて。
 こんなに苦しくてつらいものが恋だというのだろうか。
「私……あの子に恋してるの?」
「それは、お嬢様が一番おわかりのはずですよ」
「どうしよう……ハンナ、私」
 幼心に夢見ていた恋は、甘いものではなかった。
 その戸惑いに、リディのサファイアの瞳が不安げに揺れる。
「大丈夫ですよ、お嬢様。初恋ははしかのようなものです。もう少し成長されたら、いい思い出になりますからね」
 人生経験豊富な女使用人は、頼りがいのある口調でそう言いきった。
 リディはいたたまれなくなって、カップの紅茶を飲み干した。それは話に夢中になっているうちにすっかり冷めてしまっていたが、火照った頭を冷やすにはちょうどよかった。


 リディが初恋に気づいてから五年の時が過ぎていった。
 最初は苦しいばかりだった想いも、少しずつ穏やかさを手に入れていき、十六歳になった少女は、十九歳になった少年との接し方を、すっかり心得ていた。
「やあ、リディ」
 深みを増した少年の声が、変わらぬ響きで彼女の名を呼ぶ。
 耳元をくすぐる風に乗って届くその声を受け止めながら、リディは少年のもとへ歩み寄った。
「またここにいたのね」
「ここは花が咲いてるし、風も気持ちいいからね。ほら、また作ったよ、花冠」
「あいかわらず器用なんだから」
 腰をおろしたリディの頭に色とりどりの花々が編みこまれた花冠をかぶせて、少年は満足そうに笑った。
「今日は……調子がいいのね」
「うん、おかしいくらい調子がいい。実にいい気分だよ」
「そう……」
「ほら、そんな顔をしないでリディ。僕がおかしいことは、僕が一番よくわかってるんだから」
 少年の言葉に、リディの顔が曇る。
 上機嫌に鼻歌まで歌いはじめた少年と、それはあまりにも対照的な表情だった。
「そんな言い方、するものじゃないわ」
「不満かい?」
「私はいいの」
「ならいいじゃないか。お屋敷で、僕が狂ってるって気づいているのは君だけなんだから」
 甘く愛を紡ぐようにリディの耳元で囁いて、少年はリディの華奢な身体を抱きしめた。
 リディは冴えない表情のまま、それでもしなやかな少年の腕をこばむことはなかった。
「心配なのよ。だってやっぱり、このままじゃいけないわ。私、あなたに幸せになってほしいの」
「今だって十分幸せだよ」
「でも……私はあなたに治ってほしい。沈んでいる時のあなたを見ているのは辛いもの」
 リディの指が、きゅっと少年の背中を掴む。彼女の方が年下なのに、それはまるで慈母のように真摯な愛に満ちた仕草だった。
「どうして?」
 答えのわかっている問いを、少年は悪戯っぽく投げかけた。
「あなたを、愛しているからよ」
「嬉しいな」
「だったら」
「でも無理だよ。僕はこれでいいんだ。君の愛を勝ち得た、幸せで気ままな狂人のままでいるよ」
 抱きしめていた身体を離し、少年はリディの柔らかな頬に口づけた。
 太陽のような笑顔で、少女の必死の申し出を拒絶しながら。
「今はこのままでもいいかもしれないわ。でも、将来のことを考えて」
「将来? そんなもの、僕にはないよ。僕にあるのは今だけさ」
 あっさりと言い切られてしまったリディは言葉をなくしてしまう。
 この刹那的な少年に、どうしたら将来を見つめさせることができるのか。
 桜色の唇をそっと噛みしめてから、彼女は心を決めた。
「……それなら私が、あなたに将来をあげる」
「リディ? どうしたんだい、急に真面目な顔をして。ふふっ、かわいいよ」
「聞いて」
 明るくふざけようとする少年を、リディは制した。
 手を放すと遠くへ飛んでいってしまう自由な凧のような少年の、白い両頬をそっと両手で包み込み、彼女はまっすぐに少年の瞳を見つめて言葉を紡ぐ。
「私はあなたと、結婚するわ」
「そうしたら?」
「そうしたら、あなたは旦那様になるの。お兄様と一緒に、この土地を守り、お父様の事業を引き継ぐの。それがあなたの将来」
「ふふ、夢があるね」
「だから、あなたの心を取り戻して」
 リディは少年の目を見つめ続けた。
 彼女に人の心を読む力はない。それでも、訴えるような思いで、捕らえどころのない少年の瞳の奥底を覗き込もうとした。
「いいんじゃないかな?」
 それが、少年の答えだった。
 リディの顔がぱっと華やぐ。
 少女は未来の幸せに胸を躍らせ、少年の腕へその身を預けた。
 幸せに目を閉じた少女に聴かせるともなく、少年はどこか調子はずれな鼻歌を歌い続けていた。


「リディ……それは」
 いつもどおりの穏やかな食後のひととき、娘の申し出をきいたオルガンダルは困ったように眉をひそめた。
「決めたんです。お父様、私はあの子と結婚します」
 もはやリディに迷いはない。
 宝石の瞳に映りこんだ暖炉の炎が星の光のように瞬いている。
「リディ、まさか、冗談はやめるんだ」
 黙りこむ父親にかわって、制止したのはエヴァンデールだ。
「冗談ではありませんわ、お兄様」
「そんなこと、認められるわけないだろう?」
「どうして!?」
 とりつくしまのない否定に、リディの声が高くなる。
「落ち着いて。だって、彼は僕たちの家族みたいなもので……」
「でも、正式に養子にとったわけではないわ。結婚するのに、何も問題はないはずよ」
 大好きな父と兄と意見があわないことがこんなにも辛いことだと、彼女はこれまでわからずにいた。想像もしていなかった反対に打ちひしがれながら、それでもリディは一歩も譲らない。
 少年に対する彼女の思いは、それほど強く、真剣だったからだ。
「リディ。お前には申し訳ないが、問題はあるんだよ」
 ついに、オルガンダルが重い口を開いた。
 暖炉からの揺らめく灯りが、その顔に深い苦悩の影を刻んでいる。
「お前には、いくつも縁談がもちかけられているんだ」
 ゆっくりと紡がれたその言葉を、聞き漏らすことができるはずもない。
 それでもリディは、聞き返さずにはいられなかった。
「縁談? お父様、それは」
「お前の気持ちが一番大切なことは私もわかっている。だからこれまで話さずにいたんだよ。だがこうなってしまっては……」
「どうして? どうして私に黙ってそんなお話が!?」
 あまりのことに、リディは大きな音を立てて席を立った。
 きれいに形作られた巻き毛がほつれるのも構わず、彼女はそのまま父親に詰め寄る。
「ひどい……あんまりだわ!」
「リディ」
 感情的になるリディを落ち着かせようと、エヴァンデールは押しとどめるように妹の両肩に手を置いた。
「はなして!」
「リディ、聞き分けるんだ」
 リディによく似た端正なエヴァンデールの顔が、険しくなる。
 はじめて見る兄の表情に、リディは息をのんだ。
「お前ももう十六歳だ。わかるだろう? 僕たちはオルガンダル家に生まれた。だから僕たちは、オルガンダルのためにできることをしなければならないんだよ」
「だって、そんな……」
「リディ、お前は本当にきれいで賢い。そのお前がふさわしい所に嫁いでくれたら、事業にとってどれほど有利なことか」
 それはリディにとってあまりに残酷な家族の本音だった。
 エヴァンデールが一言言葉を紡ぐごとに大きな瞳が見開かれ、潤んだ涙が零れ落ちそうに満たされていく。
「エヴァンデール」
 あまりに哀れなリディの様子に、オルガンダルはそっと息子をたしなめるが、放たれた言葉を取り戻すことはできない。
「お父様、こんなの、嘘でしょう?」
「……すまない、リディ」
「……!」
 リディの黄金の巻き毛が絶望に翻る。
 居間を飛び出した彼女を追うことは、父親にも兄にもできない相談だった。


 リディは階段を駆け上った。
 遅れている勉強時間を取り戻すために、夕食後はいつも自室で読書に励んでいるはずの少年に、リディは自分のすべてを投げ出してしまいたかった。
「どうしたんだい、リディ?」
 音をたてて乱暴に開いた扉の向こうで、少年は踊りながら本を読んでいた。
 とにかく今日は気分がいいのだろう。落ち着いて机に向かうことができないほど上機嫌の時、少年はよくこうしてステップを踏みながら読書する癖があった。
「ああ!」
 リディは悲鳴にも似た安堵の声をあげて、少年の胸に勢いよく飛び込む。
「ふふ、どうしたんだい、君らしくもないお転婆だね」
 華奢な少女が預けた全体重をいとも簡単に抱きとめて、少年は歌うように問いかけた。
「だって、お父様とお兄様が……ああ、あんまりだわ!」
「なんだか大変だったみたいだね」
 少しも大変そうには聞こえない明るい声音でそう言って、少年はリディの手をとった。
 そのまま、完璧なワルツのホールドに持ち込んで、軽やかにステップを踏みはじめる。
「私、あなたと結婚したいって言ったの。けれど、お父様もお兄様も許してくれなくて……」
「うんうん」
 少年の巧みなリードに身をまかせながら、リディは震える声で語りだす。
「それだけじゃないの。家のために、会ったこともない人と結婚するだなんて……私、耐えられないわ」
「辛いんだね」
「ええ!」
 あくまでも朗らかな少年の声が、リディには二人の踊りを盛り上げるワルツの調べのように聴こえた。
 衝撃に青褪めていた頬が、夢のようなワルツの回転に、薔薇色に染まってゆく。
「大丈夫、僕にまかせて」
「どういうこと?」
「君の望みを、僕が叶えてあげる」
「本当に? でも、そんなこと……きっと無理だわ」
「信じて。今の僕にできないことなんか、ないんだよ」
 交わされる言葉の一つ一つが、軽やかで楽しげなステップに編みこまれていく。
 リディは頭の芯がぼうっとしていくのをひどく心地よく感じていた。
「僕はなんだって、できるんだよ」
 自信に満ちた少年の声が、リディの張り詰めた心を溶かしてゆく。
 少女は強い眠気を感じる間もなく、幸せな眠りの淵へと沈んでいった。


 夜の帳がそっと少女を夢に誘う頃。
 リディは自室の扉が力任せに開かれる音で夢の淵から引きずり上げられた。
「お嬢様!」
 悲愴なまでに必死な女使用人の声はあまりに耳慣れないもので、いまだ眠りの残滓に支配されたリディの瞳は、ぼんやりと声の主を追いかけた。
「お嬢様、ああ、なんということ!」
「ハン……ナ?」
 ゆっくりと皮膚の薄いまぶたが押し上げられ、リディはようやく慣れ親しんだハンナの姿を視界におさめた。
「お早くお逃げくださ……ぁあっ!」
 恐怖と焦燥に歪んだハンナの顔が、およそ人間の作り出す表情とは思えないものにまで歪みを深くする。
 甲高い悲鳴と、湿った破壊音がほぼ同時にリディの耳朶を打つ。
「ひっ、いやぁっ!」
 悲鳴は続く。徐々にくぐもり、湿り気を増していく声にあわせ、肉を断ち命を砕く音がリズミカルに重なった。
「……なに……?」
「お、おじょ……さま……どう……か……!」
 最期までリディの身を案じたハンナの言葉は、断ち切られた喉が漏らす乾いた空気の音で締めくくられた。
 覚醒したばかりの自分の目の前で繰り広げられた、悪夢をも凌駕する惨劇に、いまやリディの瞳は釘づけだった。
「これ……は……?」
「やあ、リディ」
 事態を受け入れられずに呆然とするリディの意識を、あまりに愛しく明るい声が引き戻した。
 そこには、全身をぐっしょりと黒ずむほどの赤に染めた少年が、ハンナの肉片がこびりついた肉切り包丁を両手に携えて笑っていた。
「肉を切る時はね、思い切りが大事なんだ。引くんじゃない、重さを使って勢いよく叩き切るんだよ。ハンナが教えてくれたのさ。本当に最高の使用人だったよね、彼女は」
 とくに機嫌がいい時の癖で、かなり早口にまくしたてる少年は、得意げに凶器を振りまわした。
 こんな時にも彼の器用さは遺憾なく発揮され、無造作に投げ上げた刃で自身を傷つけることもなく、少年はおもちゃを取り扱うように楽しげなジャグリングを続ける。
「あなた……な、なにを?」
「ご覧のとおり。まだだいぶぶつ切りだけど、お望みなら最高のミンチを作るよ。ちょっと脂も足せば最高の味になると思うな。今夜のミートパイはハンナで作ろうか?」
「い、いやぁっ」
 太陽のような笑顔で、嬉々として己の行為を語る少年に、ついにリディは悲鳴をあげた。
 柔らかな絹の寝具で統一されたベッドを飛び降り、紙のように白い裸足で扉へと駆ける。道の途中にできたハンナの血溜りを気にかけることすら忘れ、小柄な少女は痩せた少年の脇をすりぬけて廊下に飛び出した。
 勢いよく走り抜けたときに跳ねた血が、点々とリディの夜着と顔を汚した。
「いやっ、いやああああああっ」
 リディは叫び続ける。
 高くよく通る少女のソプラノが、喉も裂けんばかりの絶叫で屋敷の夜を揺さぶった。
「うん? どうかしたのかな?」
 残された少年はわずかに眉を寄せたものの、すぐに笑顔を取り戻す。
「ああ、嬉しすぎておかしくなっちゃったのか」
 自分勝手に納得し、少年は少女を追いかける。
 ハンナの血を使ってリディが描いた真っ赤な足跡を悠々とたどりながら、少年は上機嫌に歌を口ずさみはじめた。
 少女の悲鳴と少年の歌が奏でる狂気のハーモニーが、血にまみれた屋敷の夜を彩っていく。
「ああっ、お父様! お兄様!!」
 必死で家族の名を呼ぶリディは、ついに彼らと再会を果たす。
「ああああああああっ」
 熾火のくすぶる暖炉の傍ら、大好きな父親の首が、頭が半分つぶれた虚ろな眼差しでリディを見上げていた。
 オルガンダルが愛用していた安楽椅子はずたずたに切り裂かれ、上品な緑のビロードは飛び散る血と肉片に汚されている。
 おそらくはそこでくつろいでいるところを襲われたのだろう、ばらばらに飛び散った紳士の身体の欠片たちは、安楽椅子の残骸を中心にバランスよく配置されて転がっていた。
「お父様ぁぁぁぁっ! あああっ、お兄様ぁぁぁぁぁっ!」
 だが、少女の絶望は終わらない。
 居間中にばら撒かれた人間の破片は、一人分には多すぎる。
 錯乱にまかせて床に膝をついたリディの震える手は、血の海のなかから愛しい家族の面影をすくいあげた。
 それは、彼女とそっくりな金髪のこびりついた頭蓋の欠片。血と入り混じるように黄みを帯びた緑色をしたたらせるそれには、白い糸のような神経でつなぎとめられた、サファイアの瞳がぶらさがっていた。
「お、お兄様っ、いやああぁぁぁぁあっ」
 もはや、リディも血まみれだった。
 抱きしめた兄の頭蓋の欠片は、当たり前のように脆く潰れ、少女を汚す。
 それでもリディは、血の海のなかを這うようにして、必死で家族の欠片を集め続けた。
「ああ、ごめんよ。掃除はちゃんと僕がするから、リディは触らなくていいんだ」
 追いついた少年が、かわらぬ笑顔でリディに手を差し伸べた。
「ほら、かわいい顔が汚れてる。こっちにおいで」
「いやぁっ」
 ところどころ血の固まりはじめた少年の手を、リディは絶叫とともに払いのけた。
「参ったな。そんなに驚かれるとは思わなかったよ」
「ひとごろしぃぃっ」
「落ち着いて、リディ。仕方ないじゃないか、約束しただろう? 君の望みを、僕が叶えてあげるって。ほら、もう僕たちの結婚に反対する人はいなくなったんだよ」
「いや、いやいやいやいやいやぁっ」
 リディが激しく頭を振る。
 金の髪をじっとりと染め上げていた鮮血が、少女の動きにあわせて宙を舞う。
「ふふふっ、あははははは! おかしいなぁ、リディ? 君は本当に困ったお姫様だね」
 突如、少年が高らかに笑い声を響かせた。
 そのけたたましい笑い声は少女の悲鳴を圧殺し、リディは嗄れ果てた喉を震わせて、悲鳴を呑み込んだ。
「リディ! 君は僕のしてあげたことが気にいらないんだね?」
「……かえしてよ……お父様……お兄様……ハンナ……! どうして? どうしてよ!」
 叫びすぎてすっかりしゃがれてしまった声で、リディは怨嗟の言葉を紡ぐ。
 涙に濡れた瞳は、血に汚れた顔のなかで、異様なほどのきらめきを誇っていた。
「どうして? そんなの、決まってるじゃないか。君のせいだよ」
 対する少年はかわらぬ上機嫌で、歌うように少女を糾弾してみせる。
「なん……そんな」
「だって、君は僕がいかれてるって知ってたんだから」
 少年はひどく嬉しそうに自らの狂気を歌いあげた。
「ねぇ、リディ。君はまるでカナリアだね」
 しなやかな上半身をひょいっと折り曲げて、少年は口づけるように甘く、リディの耳元で囁いた。
「その黄金の髪も、綺麗な歌声も、それに誰よりも繊細で敏感なところも。僕はずっと思ってたんだ。君はまるでカナリアみたいにかわいらしい」
 少年の声が持つ独特のリズムが、リディの判断力を奪っていく。
 彼女はもはや、反論することも忘れて、ただ少年の言葉に耳を傾けていた。
「だけど、とっても悪いカナリアだ。カナリアがちゃんと毒をしらせないから、みんな手遅れになってしまった。その身をもってカナリアが危険を知らせなかったから、みんなみぃんな、死んじゃったんだよ?」
「……ゃ」
「あはははははは! リディ! 僕は一度だって僕自身の毒を隠したことなんてなかったはずなのにねぇ! ふふっ、ははははははは! 本当に残念だよ!」
「やあぁぁぁぁぁぁっ!」
 狂気にまかせて高らかに笑い続ける少年の声と、喉を切り裂こうとするほどに狂おしい少女の悲鳴が絶望のフィナーレを歌い上げる。
 ついに力尽き、声が途切れたその時、哀れなカナリアの少女の瞳は正気の光を失っていた。


 居間の窓から朝焼けの気配が伝わってくる。
 それを気だるげに見やりながら、少女を抱いた少年がぶつぶつと陰鬱に呟き続けていた。
「ああ……やってしまった。僕はついにやってしまった。だから嫌だったんだ……わかってたんだ。僕は罪深い。僕は穢れている。僕は呪われている。僕にはすべてを壊すことしかできない。僕は何も手に入れることができない。僕は……僕は……」
 弔いの歌にも似て暗澹とした響きが、地を這うように血の薫る空気を震わせる。
 そのリズムにあわせるように、壊れてしまった少女の虚ろな歌声が、場違いに幸せな歌を紡ぎ奏でていた。
「リディ……リディ。かわいそうなリディ。僕なんかを愛してしまったばっかりに……」
 凝固した血に固められた金髪を丁寧に解きほぐしながら、少年はもう片方の手で血の海から凶器を拾い上げた。
「ねぇ、一緒に……逝こうか?」
 血と脂にまみれた肉切り包丁は少年の手から滑り落ちようとする。
 だが少年は、それがあたかも最後の望みの糸であるかのように、しっかりと握って放さない。
 その力強い手が凶器をふりかざしたまさにその時、少年は、ちりん、という高く澄んだ音を聴いた。
「……ん、あれは……?」
 澱みきった空気を切り裂いて、澄んだ金属音が連続する。
 規則的なようでいてどこか不安定なその音が、自責の闇に沈みかけていた少年の意識を吊り上げてゆく。
「ウサギ?」
 そしてついに、少年はその影を目にした。
 白い影、金の鎖で飾られた懐中時計を揺らしながら、窓の外を駆け抜けてゆく影。
「……ぁ」
 先に反応したのは少女だ。
 何も映さなかったはずの瞳がたしかに影を追い、あらゆる力など失われてしまったはずの身体が操り人形のように不自然に自然に動き出す。
「リディ」
 かつての快活さを彷彿とさせる軽やかさで少女が窓枠を越えた時、少年に残された選択肢は一つしかなかった。
「僕も行くよ、リディ」
 少女はウサギを追い、少年は少女を追う。
 あまりに一方通行の追いかけっこがはじまった。


 たどり着いた深く厚みのある闇のなかで、少年と少女は幸せな恋人同士のように互いの手を固く握り締めていた。
「殺戮の国へようこそ」
 闇に寄り添うようにかすかに空気を震わせて、声が響いた。
「わたくしは偉大なるハートの女王のしもべ、白兎です。狂気に駆られたあなた方をお迎えにあがりました」
 その言葉に、少女がかすかに微笑んだ。
 その微笑が嬉しくて、少年は少しずつ気分を上向かせていく。
「仲睦まじいお二方。ではまず、お名前を伺いましょうか?」
 慇懃ではあるが感情のこもらない声で、白兎が問いかける。
 少年は嬉々として答えようとして、言葉をなくした。
 慣れ親しんだはずの名前が、幾度も少女が甘く囁いたはずの己の名前が、どうしても思い出せなかった。
「私はカナリア。カナリア姫」
 戸惑いに沈黙する少年の隣で、少女が闇を切り裂く美しい声音で名乗りをあげた。
 その名にふさわしい美声は、いつまでも豊かな余韻を持って闇を揺らした。
「カナリア姫。貴女にふさわしい、すばらしいお名前ですね。さて、貴方の方はいかがです?」
「……いかれ帽子屋」
 もはや少年に戸惑いはなかった。
 カナリア姫の歌声が、すべての迷いを払拭し、黄金に輝く一本の道筋を照らし出したようだった。
「よろしい。歓迎いたしますよ、カナリア姫にいかれ帽子屋。それでは、望む武器を与えましょう」
「武器?」
「ええ、武器です。これからあなた方には、殺戮の国にふさわしい殺戮に参加していただきます。狂人ばかりのこの国で、見事三人の首を刈り取ったならば、その時ハートの女王があなた方に慈悲をお与えになるでしょう」
 白兎は淡々と、二人に殺戮を命じる。
 だが受ける二人もすでに狂人。動じる心は持ち合わせていないのだった。
「慈悲、とは?」
「殺戮の国からの自由。三人の首を女王に捧げた者には、もとの世界に戻る自由が与えられるのです」
「それは、興味深い」
 少年が笑う。
 その笑顔には、陽気な狂気がたしかに戻ってきていた。
「さあ、目を閉じて望む武器を思い描きなさい」
 白兎の言葉に従い、二人はそっと目を閉じた。
 すぐに、手のうちに罪深い手ごたえを感じて、二人は目を開ける。
「おや、お二人ともナイフですか。本当に、仲がよろしいのですね」
 白兎の言うように、二人は鏡に映したようによく似たナイフをそれぞれ両手に携え、互いに見つめ合っていた。
「では、道を示しましょう……?」
 それは一瞬の出来事だった。
 いかれ帽子屋に向かって微笑むカナリア姫の首が飛ぶ。
 断ち切られた金髪が闇に舞い、光などあるはずもないのにきらきらと瞬いた。
「これはこれは、わたくしにとっても、はじめての事態です」
 ごとんと重たい音をたてて、微笑んだままのカナリア姫の首が硬い床に転がった。
 白兎の声が、わずかに戸惑ったような、面白がっているようなかすかな色を帯びて、響いた。
「これで一つ。あと二つで自由」
 いかれ帽子屋の上機嫌な声が、歌うように数を数える。
「いいでしょう、いかれ帽子屋。あと二つです。それにしても、貴方は実に迷いがない。きっと、女王は貴方を気に入られることでしょう」
 白兎の声に、今度は明らかな感嘆の色が混じった。
 すぐに、不愉快な歪みの音がして、カナリア姫の遺骸はより深い闇のうちへと消えた。
「僕は――」
 白兎にこたえようと口を開きかけて、いかれ帽子屋は言葉を切った。
 これは転機だと思った。
 少年はもはや少年ではなく、狂人のなかの狂人、いかれ帽子屋にならねばならない。
 だから、カナリア姫の血の残り香を胸いっぱいに吸い込んで、彼は言い放った。

「ワタシは、いかれ帽子屋ですからねぇ!」


                             This is the END of "The Heretical Canary”……