「殺戮の国のアリス」番外編
無傷の傷痕
 
「リストカット?」
 耳慣れない言葉を思わずそのまま聞き返した僕に、ルームメイトの少年はにやっと口元を歪めて笑った。
「ああ、女子の間で流行ってるらしいぜ。いかれてるよな、手首切ったり、太もも切ったり」
「死にたいのかな?」
「どうだか。俺が聞いてるかぎりじゃ、みんな適当な浅い傷ばっかりで、死にそうな奴はいないって話だがな」
「ふーん」
「なんだよ、つまらないか?」
 得意げに語っていたのが一変、今度はどこか不満そうに唇を尖らせて、僕の方に身を乗り出してくる。
 彼はいつもそうだ。とりとめのない話をしては、僕の反応が悪いと不満がる。
「不思議な話だね」
 僕はそんな彼の性格をよくわかっているから、いつもこうやって適当な相槌で応じている。
 全寮制の寄宿学校で平穏に暮らしたいなら、ルームメイトとの関係には気をつかった方がいい。
「不思議?」
 今度は、彼の方がきょとんとして、僕の言葉を繰り返した。
 どうやら、僕は相槌を間違えたらしい。
 たいていはうまくいくのだけど、時々こうやって失敗してしまうことがある。
 何事も完璧な「フリ」をするのは結構難しい。
「だって、そんなことが流行ってるなんてさ。そう言うからには、一人や二人じゃないんだろう?」
「ああ、そういう意味か」
 納得してもらえた。
 これでうまく持ち直したことになる。
「どうして、傷つけるのかな?」
「さあな。女の頭んなかはいつだって意味不明だ」
「そうだね」
 これでOK。無事に話は終わった。
 彼は興味をなくして、いつものようにさっさとベッドに潜りこむ。
 話したいだけ話したら気分よく寝てしまえる彼は、僕みたいな人間には最高のルームメイトだ。
「おやすみ」
「ああ、おやすみ」
 僕が声をかけて、彼が答えて。
 これでおしまい。無難な一日が今日も無事に終わりを迎える。


 翌朝、僕は仮病をつかって授業をサボった。
 こういう嘘ははじめてだったから少し不安もあったけど、ひとの良いルームメイトはとくに疑うこともなく、月並みな見舞いの言葉を残して出ていった。
 この時間帯、学生寮は信じられないくらい静かだ。
 賑やかな住人たちが授業に出ている時間なのだから、当たり前といえば当たり前なのだけど、薄い壁の向こうから笑い声一つも聞こえないこの静けさは、なんだかとても新鮮だ。
 自分のベッドに腰かけて、慣れ親しんだ部屋をしみじみと眺める。
 窓際に、二つ並んだ机。
 整理整頓が苦手なルームメイトのごちゃごちゃした机とは対照的に、僕の机の上はひどくすっきりしている。
 もともと、とくに趣味とか好きなものがあるわけじゃないから、モノが少ないんだ。
 学校で使う教科書や参考書しかなかったら、散らかしようもないってわけ。
 立ち上がって、ルームメイトの机に近づく。
 手を触れるといろいろ怒られそうだから、彼の生活の証を観察するように、そっと上から覗き込んだ。
 散らかり放題の机の上でも、たった一箇所、大切そうに誇らしげにディスプレイされた一画がある。行儀よく並んだバイクの模型をしげしげと眺めて、僕は彼の言葉を思い出していた。
『これ、俺の宝物なんだ。お前は? 好きなもんとかあるだろ?』
 宝物、か。
 その時は曖昧に笑ってやりすごしたけど、改めて考えてみると、なんだか不思議な気分だ。
 僕には、彼にとっての宝物になるようなものが何もない。
 僕は、やっぱりちょっとおかしいのかな。
 普通に生きてきたつもりだったけど、どこかで何か重大な失敗をしてしまったのかな。
 この世界には、僕が触れられるものは何もないって思う。
 手を伸ばしてもすり抜けるのが当たり前で、だからいつしか触れようとすることすら忘れてしまった。
 みんなだいたいそうなんだろうと思って気にしていなかったけど、本当は……違うのかもしれない。
「……ばかばかしい」
 独り言って、こういう時にはすごく効果的だ。
 どうしようもない考えが頭のなかで堂々巡りをはじめたら、こうやって言葉にしてみる。
 そうすると、頭の方も無意味なことに気づいてくれるんだ。
 ルームメイトの机から離れて、僕は自分の机に手を伸ばす。
 そう、今日こうやってサボったのには、もちろん理由がある。
 引き出しを開けて取り出したのはカッターナイフ。あまり使うこともなくてしまいこんでいたけれど、ためしに押し出してみた刃は綺麗なものだった。
 昨夜の他愛もない会話。それがなんとなく引っかかっていた。
 これは、僕にとっては本当に珍しいことだ。たいていのことは僕の目の前を通り過ぎていってしまうだけなのに、その言葉だけは、澱みに引きずり込まれた木の葉のように、僕の思考の海でくるくると踊り続けた。
「リストカット」
 口に出すと思った以上に軽やかな印象のその言葉。
 ベッドに戻った僕は、壁にもたれながらカッターナイフの刃を眺めた。
 冷たい鈍色の、かよわい刃。
 それでも、もっと脆い僕の身体を傷つけるには十分なはずだ。
「……ん」
 右手に携えたカッターナイフを、そっと左手首の内側に押しつける。
 もちろん、これだけで切れるほど鋭利な刃物じゃない。
 もう少し力を入れて、手前に引いた。
「あ」
 ついっと皮が引き攣れる感覚。一瞬引っかかった手ごたえは、すぐに妙に滑らかなものにとってかわる。
 少し遅れて、赤い直線がにじむように描かれた。
「……へぇ」
 少し、鼓動が速くなる。
 嬉しい。なんだろう、こんな感覚、ものすごく久しぶりだ。
 もう一度、今度は少し場所をずらして刃を走らせる。
 すごい、これは本当にすごい。

 だって、この痛みは僕のものだ。

 皮膚が切り開かれる感覚、流れていく血の温かさ、そして脳に伝わるこの痛み。
 それは、僕の身体が今たしかにここにあって、僕のものであることの証明にほかならない。
 実感できるということが、こんなに幸せなことだなんて。
 くらくらしてきた。でもきっと、出血のせいじゃない。
 繋がったんだ。僕はたった今、世界に触れたんだ。
 嬉しくて嬉しくて、たまらない。
 この喜びをもっともっと味わいたくて、僕は右手に力をこめた。
「ぅ、あ」
 いけない。
 ちょっとやりすぎた……ああ、シーツが汚れちゃうな。
 でも、赤くて赤くて赤くて。
 ああ、気持ちいい。


 重たい目蓋を押し上げると、真っ白い天井が見えた。
 おかしいな、僕たちの部屋の天井にあるはずの染みが見当たらない。
 慣れ親しんだ染みを探してなんとなく視線を泳がせた僕は、そこでようやく自分の置かれている状況を把握した。
「……あの」
 忙しそうにしている看護婦さんに声をかけるのはちょっと申し訳ないけれど、仕方がない。
「あら!」
 隣のベッドを整えていた看護婦さんは、笑顔で答えてくれた。さすがプロだ。
「すみません、僕は」
 身体を起こそうとして眩暈がした。
「あ、無理して起きないでね。だいぶ出血していたから」
 そういうことか。
 身体を起こすことを諦めて、腕の方を動かしてみる。予想通り、左腕には大げさに感じるほどしっかりと包帯が巻かれていた。
「ごめんなさい」
 こういう時は一応しおらしくするものかな、と思って謝っておくことにする。
「私には謝らなくてもいいのよ」
 言われてみればそのとおりだ。
 むしろ、謝らなきゃならない相手は別にいるだろう。例えば、ルームメイトとか。
 僕の記憶のとおりなら、ここに運び込まれる前、部屋のベッドは血まみれになっていたはずだろうから。
「でも、自分のことはもっと大事にした方がいいわ」
「はい……あの、僕、もう戻ります」
「ダメよ、血が足りてないんだから。今夜は入院です」
「でも……」
「明日、ご家族の方が迎えにいらっしゃるそうよ」
「えっ」
 ぐっ、と心臓を鷲掴みにされたような気分。
 まあ、これだけ大事になっちゃったからには、実家に連絡されても仕方ないけど……ちょっと参るな。
「あなたのお父さん、すごく心配してたわ。素敵な家族で羨ましい」
「ええ」
 言いながら微笑む看護婦さんの笑顔に嘘や気づかいは見えない。
 あいかわらず、父さんの演技力はすごいんだな。
「さ、そろそろ消灯だから。ゆっくり休んでね」
「はい、ご迷惑おかけしてしまって、すみませんでした」
 殊勝な顔をして見せたら、看護婦さんは笑顔で頷いてくれた。
 大丈夫、僕はまだちゃんといい子でいられてる。
 だから……父さん、お願いだから。

 お願いだから、僕の前に現れないで。

 蛍光灯が消されて、病室が暗くなる。
 僕しかいない二人部屋。一晩の入院ですむ傷くらい、大部屋だって構わないのに。きっとこれも、父さんの意思だ。
 目が慣れてきた。
 きちんと閉められた窓のカーテンごしに、外の光がぼんやりとにじんでくる。
 そうか……ここは街中なんだ。
 僕が暮らしていた学校は、勉学に集中できるようにという名目で、わざわざ街から離れた山奥にある。でも、怪我がひどくて学校から運び込まれたんだとしたら、そう、ここは一番近い街の病院なんだ。
 消毒された独特のにおいがする毛布をぎゅっと握り締めた。
 それからゆっくりと身体を起こす。大丈夫。さっきはくらっとしたけれど、もう今はちゃんと頭に血がまわってる。
 一つ深呼吸。うん、いける。頭はちゃんとすっきりしてる。
 僕はそっとカーテンを引いた。
 そして、この目に飛び込んでくる夜の街灯り。そんなに大きな街ってわけじゃない。でも、夜になれば暗闇しか見えない寄宿舎の窓とはまったく違った景色。
 今夜の僕はついてるみたいだ。
 思ったよりも近くに見える地上。この病室は二階だ。これなら、ちょっとがんばれば外に出られる。
 窓を開けた。涼しくて心地よい夜風が前髪を揺らした。
 季節にも恵まれてる。真冬だったら、こんな薄着で外に出たらただじゃすまないからね。
 といっても、さすがに寝巻きで外に出るわけにもいかないか。
 ベッドを降りて、サイドボードを調べる。運び込まれた時の服を置いておいてくれてることを期待して。
まいったな、さすがにシャツは処分されちゃったか。きっと相当血まみれだったんだろう。でもとりあえず、下だけでも着替えていこう。
 手早く着替えを済ませ、窓の外に身を乗り出す。
 だいじょうぶ、他に開いてる窓はない。みんなちゃんと寝静まってるんだ。
 灯りが見えるのはナースステーションかな。とりあえず、見つからないように気をつけよう。
 さすがに二階から飛び降りるのは無謀だ。かといって、壁伝いに降りていくにも、左腕にまともに力が入らないからそれも難しい。
「……しかたない、か。ごめんなさい」
 今のは誰に謝ったのかな? まあ、いいや。
 大きな音を立てないように気をつけながら、手近な布をかき集める。
 シーツは裂けば長さを伸ばせそうだな。カーテンと毛布は仕方ない。もたもたしてると朝になってしまうから、手早く進めなきゃ。
 それにしても、片腕しか使えないと不便だな……これからはもっと気をつけて切らないと。
 ……ん? 僕、まだ懲りてないのかな。まあでも、実際気持ちよかったし。傷つけるのはやめられそうにない。
「……よし」
 急ごしらえの命綱を窓際の暖房用の配管に結びつける。一応ひっぱって強度を確認してみるけど、急いで作っただけあって、だいぶ心もとない。
 それでも別に構わない。
 途中で切れたらそれまでだ。僕の運が悪かったってこと。打ち所が悪かったら死ぬのかな。それも、アリかな。もちろん自殺願望なんかあるわけない。生きるか死ぬかなんてどうでもいいんだから。
 それでも、できるなら……父さんには会いたくないから。
 右手にぐっと力をこめて深呼吸。あれ、僕、緊張してる?
 ふふ、なんだか面白いな。こんなの、あまりに僕らしくなくって、ちょっと笑える。
 だって、こんなに何かに一生懸命になるのなんて、ほんと初めてだから。
 ……さあ、行こう。
 そして僕は生まれてはじめて、自分の意思で一歩をふみだした。


 都会を流れる汚れた川を見下ろして、僕はいつもの橋の上で、ぼんやりと待っている。
 誰を? 誰だっていいんだよ、別に。
 暗く油膜の虹色がきらめく水面に、街灯の明かりが星のように映りこむ。そろそろ時間だ。今日は週末。だからきっと、お客には困らない。
 なんとなくかざしてみる左腕。包帯の下に隠れている増えに増えた傷痕を数える気にはならないけれど。
 無人島に漂着した船乗りが岩を刻んで日数を数えるように、あの日から日ごとに増えていった僕の傷。でも、僕の場合、一日一つ、なんて規則正しいやり方はしてないけれどね。それでも、この傷痕の数は、きっと僕にとってのカレンダーなんだ。一人で生きていくことを知ってからの、僕の曖昧でいい加減な記録。
 たいした傷じゃないから、本当は包帯なんていらないんだけど、気味悪がるお客もいるから仕方がないよね。
「ちょっとアンタ」
 ふいに耳を打つ、剣呑な女性の声。
 どうやらお客じゃなさそうだ。
「はい」
「アンタだね、最近ここに立ちんぼしてるガキってのは」
 振り返った僕を見据える、強い眼差し。
 豊かな胸を強調するように、大きく胸元の開いた深い赤のドレスが毒々しい。無造作に結い上げた髪に、きっちりと作りこまれた化粧。間違いなく娼婦……同業者だ。
 こういう事態にももう慣れた。
 最初は知らなかったんだけど、この世界にも秩序があるんだ。どんな場所でも仕切ってる人間がいて、それに上納金を納めなきゃ仕事はできない。そのかわり、お金さえ払えばそこで商売する権利を認めて保護してもらえるってわけ。
「困るんだよ、勝手なことされちゃあさ」
 大人っぽいきれいな顔をぎゅっとしかめて、僕を睨みつけてくる。
 きっとこのあたりはこの女の人の縄張りだったんだ。
 僕はそういうのが面倒だから、勝手に仕事をして、それで誰かに文句を言われたらおとなしく立ち去るようにしてる。
「ごめんなさい」
 もともと場所にこだわりなんかないし。どこでだってお客は見つかるってことはこの生活をはじめてよくわかるようになった。
「なによ、これ?」
「お詫びの気持ちです。少ないですがそれで全部です」
 帰る家もない僕は、いつだって全財産を身につけて歩いてる。
 危ないな、とは思うけど、そんなこともどうでもいいから。
「……アンタ、売りやってるんだ?」
 怒ったように刺々しく言いながら、彼女は僕が差し出した現金を乱暴にひったくった。
 受け取ってくれれば大丈夫。時々、男の人が出てきて殴られることもある。でも、今回はそういう雰囲気じゃない分、ついてるみだいた。
 相手が怒ってるときは、やりすごすのが一番正しい。
 だから僕は女の人と目をあわせずに、俯き加減に頷いてから、おとなしく立ち去ることにする。
「待ちな」
 ……ダメだったかな。まあ、痛い目を見るのも慣れてきたし、それに……痛みは嫌いじゃない。それは、僕がはじめて自分を切り裂いたあの日から、僕がここにいることを教えてくれる、たった一つ確実なものだから。
「……え?」
 痛みを待ち受けて身をすくめながらふりむいた僕は、不意をつかれることになった。
 拳のかわりに押し付けられたのは、僕がさっき渡したばかりの現金の薄い束。
 わけがわからなくて、つい女の人の顔を見つめてしまう。さっきまで眉をひそめて怒りをあらわにしていた女の人が、唇だけで笑っていた。
「なにぼんやりしてるんだい。先払いはこの商売の基本だろ?」
「は、はあ……」
 不思議な表情だ。
 真っ赤な口紅のよく映える形のいい唇は、両端を魅惑的に吊り上げている。それなのに、この人の目は少しも笑ってない。さっきより浅くなったけれど、眉根に寄った皺はあいかわらずだし、深い緑の綺麗な瞳は、底なし沼みたいに深くて真っ暗だ。
「さっさとしとくれ。アンタ、客に恥をかかす気かい?」
「客?」
 今までにないパターンの反応に、僕の頭がついていかない。
 ただ、しびれを切らした女の人が僕の手を掴んで、お金をつっかえしてきたのはわかる。右腕に、僕のものじゃない温度が伝わってくる。知らない温度。僕と世界の境界を曖昧にしてしまう、温度。
「受け取ったね。じゃ、契約成立だ」
「あの」
「今夜のアンタは、あたしが買ったんだ」
「……」
「なんだい、それじゃ足りないってのかい? ちょっと若くて見た目がいいからって、調子に乗るんじゃないよ、売女の分際で」
 女の人の声が変質する。
 ああ、これもずいぶん馴染んできた感覚だ。見えないガラスに遮られたように、僕は世界と分断される。
 お客のいる世界は、僕の手が絶対に触れられないどこかになってしまう。そして声も、遠ざかる。
「ついてきな」
 右腕が引っ張られる。僕の腕は女の人に掴まれている。
 そんなことは見ればわかる。ただ、感じないだけのこと。


「ほんとトロいね、アンタ。ほら、突っ立ってないで適当に座りなよ」
 まさか同業者に買われることになるとは思わなかったけど。まあ、相手が誰でもやることは変わらない。意外だったのは、案内されたのが連れ込み宿でも路地裏でもなく、小さなアパートメントの一室だったことだ。
 こぢんまりとした雑多な空間。ここでの暮らしを連想させる、生活感のある部屋だ。
 勧められるままに、ダイニングテーブルの椅子を引く。ちょうど女の人と向かいあう格好で座ることになった。
「ほら」
 無造作に差し出されたショットグラス。少しこぼれた中身が、木のテーブルの上であっという間に気化してなくなる。すごく強いお酒だ。
 飲めないわけじゃないんだけど、僕はあんまり強い方じゃない。身の安全を考えるなら、客の前で飲みすぎるのは得策じゃないんだけど。
「なんだい、男のくせに飲めないのかい?」
「……いただきます」
 同じ酒を瓶から直接喉に流し込みながら、女の人が鼻で笑う。
 ここで断るのも大人げないから、とりあえず僕も一気にあおる。喉が熱い。妙な感覚だ。痛みじゃないし、でも、僕の内側を直接アルコールが撫でていく感じ。近いようで遠くで、ぼうっとする。
「まずそうに飲むね」
「ごめんなさい」
「まあいいさ。おっと、自己紹介がまだだったね。あたしはエルフィーナ」
「はい。ええと、エルフィーナさん、ですね」
「気持ち悪いね、エルフィーナ、でいいよ」
「はい、エルフィーナ」
 従順に頷いて、名前を繰り返す。これも、商売の基本。客が名乗るのは、コトの最中にその名前で呼んでほしいからだ。間違えたりしたら大変なことになる。
「で、アンタは?」
「え?」
 またいつもと勝手が違う。
 僕の名前なんかきいてどうするつもりなんだろう? そんなの、どう考えたって必要ないはずなのに。
 僕が戸惑っていると、エルフィーナはまた不機嫌に眉根を寄せた。
「マヌケな顔するんじゃないよ。言葉がわかんないのかい?」
「いえ、その……でも」
「まさか、名前がないってワケじゃないんだろう?」
 まいったな、どうしよう。名前なんて聞かれるのはじめてだ……適当な偽名でも考えておけばよかったな。
「……あなたが決めてくれませんか?」
 ずっと黙ってるわけにもいかないから、とりあえず返してみる。
「はぁ?」
 案の定、エルフィーナはひどく怪訝そうな顔になった。
 でも、切り出した以上は引かないに限る。
「僕に名前をください、エルフィーナ」
 たいていの客を喜ばせられる、すがりつくような寂しげな眼差し。それが僕の売りなんだってことはよくわかってる。
 まばたきしないようにじっと見つめる。そうすると、青い瞳がだんだん潤んで、それらしく見えてくるんだ。
「妙な子だね。悪いけどお断りだよ。あたしが名前つけるとろくなことにならないんだ」
「ろくなことにならないって?」
 エルフィーナがすっと目をそらす。
 世間話のつもりだったんだけど、まずいこと聞いちゃったのかな。名前をつけるとろくなことにならない、なんて意味がわからないけど。
「……猫が死んだ」
「……そうですか」
 猫、ね。見かけによらず、情の深いタイプなのかもしれないな。
「まあ、名前なんて二人っきりならどうでもいいか」
 それっきり、会話が途切れてしまう。
 そろそろ、仕事をはじめるタイミングかな。
「あの、先にシャワーを浴びてもいいですか?」
 豪快に酒を飲み続けているエルフィーナに声をかける。
「ああ、勝手にしなよ。そっちの奥」
「ありがとうございます」
 言われたとおりにバスルームに入って、僕は服を脱ぎ捨てた。
 マメに掃除の行き届いたバスルームは清潔で、僕はまたちょっとエルフィーナへの考えを改める。こういう仕事をしてる人ってだらしない人が多いんだけど、彼女はずいぶんきっちりしてるんだ。
 安アパートの常で、なかなか熱くならないぬるいお湯に身体をさらす。
 左腕に刻まれた新しい傷に石鹸とお湯が少し沁みる。でも、この痛みはお気に入りなんだ。どくどくと鼓動に合わせて伝わる痛みは、胸の奥深くに収まって、おとなしく気取ってる心臓よりずっと確かに、僕の命の営みを教えてくれる。
 蛇口をひねってお湯を止め、部屋に戻ろうとして僕は気づく。
 しまった、タオルを借り忘れた。
「これ使いな……って、アンタ」
 タイミングよくタオルを届けに顔をだしたエルフィーナが、僕の身体を見て言葉を詰まらせる。
 その視線が左腕に釘付けになってるのがわかったから、僕はさっと腕を身体の後ろにまわして隠す。
「ありがとう」
 あえてそのことには触れないで、笑顔をつくって右手をさしだしてタオルを受け取った。
 でも、エルフィーナは動かない。隠した僕の左腕をじっと見つめている。
「その傷……」
「ごめんなさい、嫌なもの見せちゃって」
 気にさせちゃったら仕方がない。とりあえず謝って、広げたタオルで今度はもっとちゃんと隠しておく。
「……はやく出な」
 エルフィーナは眉間に皺を寄せたまま、それ以上何も言わずに出ていった。
 かなり嫌がられちゃったな……抱かせてもらえなかったらまずいよね、代金は先にもらっちゃってるし。
 きちんと包帯を巻きなおして部屋に戻ると、エルフィーナはさっきと同じ場所で酒瓶を傾けていた。
「あの、これ、お返しします」
 橋の上でつっかえされたお金をテーブルの上に置いた。
 その途端に、エルフィーナの眉間の皺がぎゅっと深くなる。
「なんで?」
「そういう気分じゃなさそうだから」
「ああ、そんなこと」
 言いながら、エルフィーナは無造作に酒瓶をテーブルに放り出す。
 こぼれるんじゃないかと思ったけど余計な心配だったみたい。瓶はすでにからっぽだった。シャワーを借りる前に見たときは、まだ半分近くは残ってたはずなんだけど……
「もともとアンタと寝る気なんてないよ」
 こちらを向いたエルフィーナの顔はほんのりと赤い。さすがに酔ってるのかな。
 それにしても、こうはっきり言い切られちゃうと、僕としては本当に困る。
「だけど、僕を買うって……」
「買ったよ。まあ、もともとアンタの金だって言われたらそれまでだけど。とにかく、買った後どうしようとあたしの自由だろ」
 それはまったくその通り。実際、抱かない客だっていないわけじゃない。でも、それならそれで何か要求されるものなんだけど。
「……どうしても仕事したいっていうんならさ、ちょっと話につきあって」
「わかりました。お水もらっていいですか?」
 顎でしゃくって示された流しに向かって、僕はコップ2つを水で満たした。
 そのうちの1つをエルフィーナの前に置いてから、僕はまた彼女の向かい側に座る。
「気はきくんだ」
「飲みすぎは身体によくないですよ」
「身体によくない、ね。あんたがそれ言うんだ?」
 ……まいったな、まさか自分で地雷を踏んでしまうとは。ショットグラス一杯のアルコールで酔いがまわったわけでもないはずなのに。
「それ、自分でやったの?」
 もちろん、積極的に話題にしたい話じゃない。でも、彼女は僕の客だ。ゆきずりの、一晩限りのことなんだから、気にするようなことじゃない。
 そう、僕には気にしなきゃいけないことなんて何もないんだ。
 そう考えたらもったいぶるのも馬鹿馬鹿しくなって、僕は素直に頷いていた。
「痛くない?」
「痛いです」
「そっか」
 少し、エルフィーナの口調が変わってきたような気がする。
 酔って気が緩んでるのかな、強がって生きていかなきゃならない娼婦独特の伝法な感じが影を潜めて、なんだか急に若くなったみたいだ。
「親が泣くね」
「父親には会わないようにしてますから」
 若く見えたかと思ったら、今度は親の話なんて持ち出してくるあたり、どこまでもつかみどころのない女性だ。
「母親は?」
「いません。早くに亡くしました」
 僕にはほとんど母さんの記憶はない。
 物心ついた頃には父さんと二人きりだった。でも、二人しかいないからって仲良くできるってわけじゃないことも学んだ。
 僕は父さんの顔をたった一つしか知らない。怒るわけでも、笑うわけでも、苛立っているわけでも、悲しんでいるわけでもない。完璧な無表情。目を合わせれば、僕と同じ真っ青な瞳には僕が映る。でも、それだけだ。
 そんな父さんが、僕以外の人の前ではちゃんと人間らしく振舞ってることを知ったとき、僕は本当に怖くなった。
 この世に、わけがわからないことより怖いことってあるんだろうか?
「ふーん、あたしと逆だね」
「えっ」
 なんとなく考えに沈んでいたから、不意をつかれた。僕はまた、踏み込んじゃいけない話題に飛び込んでしまった。
「言ったろ? あたしが名前をつけるとろくなことにならない、って」
 エルフィーナは笑おうとした。でも、うまくいかなくて、妙に歪んだ表情になる。自分でもそれに気づいたのか、彼女はまた眉間の皺に逃げ込んで、コップの水を一気にあおった。
「生きてたら、ちょうどあんたと同じくらい……なんてね。嘘、もっと全然若いか」
 ひょっとして、それがエルフィーナが僕に声をかけてきた理由なんだろうか?
 自分の子どもを思い出させる僕が、こういう仕事してるのがいたたまれなかったとか……いや、やめよう。こんなこと、想像しても意味なんてないし、直接聞けるようなことでもない。
「……死にたいの?」
 また不意打ち。遠慮も会釈もない、まっすぐに切り込んでくる問い。僕は、少し微笑んでみせてから首を左右に振った。
「あたしは、死にたいな」
 今度は、僕は何も言わなかった。
 ただ、微笑をひっこめて、神妙な顔になって黙っている。たぶん、これで正しいはずだ。
 しばらくそうしていると、穏やかな寝息が聞こえてきた。
 エルフィーナが眠ったんだ。とても代金分の仕事ができたとは思えないけど、とりあえず、よく眠れてるみたいでよかった。
 僕は、年上の女性の意外なくらいに細い身体をそっと抱き上げて、部屋の片隅のベッドに運んだ。


「おかえり」
 窓の外がうっすらと明るくなりはじめた頃、エルフィーナはいつものように疲れた顔で帰ってきた。
 僕はいつものように彼女を待っていて、温かいミルクを用意して迎える。シナモンをほんの少し香り付けに使うのが、彼女のお気に入りのレシピだ。
「ん」
 帰ってくる言葉は短い。
 でも、湯気のたつマグカップをかたむける内に、彼女のぎゅっとしかめた眉から少しずつ力が抜けていくのを見るだけで、彼女の気持ちはだいたいわかるから十分だ。
「夕方になったら起こして」
 昨夜の稼ぎを無造作にテーブルに放り出し、エルフィーナはベッドに倒れこんでしまう。
 そっと毛布をかけてあげて、僕はまたダイニングテーブルに戻る。
 もうすっかり馴染んだ習慣だ。
 エルフィーナに買われたあの夜から、もうどれくらい経ったんだろう。結局あれから僕はここに居候していて、ほとんど外に出ていない。
 あの夜の僕の全財産、それはつまり、エルフィーナが僕に払った代金だ。それで僕の人生は彼女に買い取られてしまったんだろうか。正直よくわからない。
 ただ、エルフィーナが僕にここにいろと言った。
 だから僕はこの部屋にいる。
 それだけのことだ。
 エルフィーナが規則正しい寝息をたてはじめたのを確認して、僕はそっと流しに立つ。
 洗いかごに無造作に放り込まれた果物ナイフを手にとって、そっと左腕に押し当てた。もう力加減もお手の物。傷つけられることに慣れて分厚くなった皮膚を、思い通りの深さに切り開いていく。
 予想した通りの痛みと、出血。蛇口を開いて、血に水を混ぜる。
 僕の赤色に染まっていく流しを見つめていると、安心した。
「……やめな」
 ぐっと左腕をつかまれた。水音に集中していたから、いつのまにか後ろに立っていたエルフィーナに気づかなかった。
 右手に持ったままだったナイフを流しのなかに取り落としてしまう。
「起きてたんだ」
 驚いたのは最初だけ。僕は傷だらけの腕をエルフィーナに預けたままでふりむいた。
「もう傷つけるなって言ったはずだよ」
 不機嫌な眼差しが僕を射抜く。びっくりするほど感情が豊かで、それを隠そうともしないのがエルフィーナの美点だ。喜びも怒りも悲しみも、すべてまっすぐに伝えてくれる彼女は、僕に不安を感じさせたりしない。
「ごめんね」
 でも、ごめんね、違うんだ。
 安心と平穏だけじゃ、僕はダメなんだ。優しくて温かいものでは、僕の存在を証明するには弱すぎる。
 ここにいることがわからなくなってしまったら、僕はどうしたらいい?
 痛み以外に、僕は僕を実感する方法を知らないんだ。
「嘘つきめ」
 刺々しい言葉。でも、言葉じゃ僕を傷つけるには足りない。
「傷が増えてる。謝る気も、やめる気もどうせないんだろうが」
 苛立ちながらも傷を気づかっていたエルフィーナの手に力がこもる。どくんと痛みがひとつ脈打って、僕の血が夜の女の青白い手に伝って赤い糸を結ぶ。
「死ぬ気もないくせに」
 そう吐き捨てたエルフィーナの緑の瞳がじっと僕の新しい傷を見つめている。
 まるでそれは、僕の傷に憧れてるみたいな、ひどく熱い視線。
 エルフィーナはいつも死にたがってる。人生に絶望してる娼婦なんて珍しくない。でも不思議なのは、死にたがってるくせに、彼女は決して自暴自棄になったりしないこと。きちんと家を調えて、食事にだって気をつかってる。それから、僕が自分を傷つけるのを叱る。まるで、道徳を教える聖職者みたいだ。
 いい機会だ。ずっと考えていたことだけど、今日こそもちかけてみよう。
「ねぇ、エルフィーナ」
 エルフィーナの手に僕の血が描いた糸を断ち切るように、そっと右手を重ねた。その途端、はっとしたように顔を上げたエルフィーナと目があった。
「僕が、殺してあげようか?」
 緑の瞳が見開かれ、そこに映るいつもと同じ僕の微笑が震えた。
「僕はどっちでもいいよ。ひとりで死ぬのが嫌なら、一緒に死ぬから」
 死にたがりのエルフィーナが死なずにいる理由は僕にはわからない。
 でも、僕が助けになれるんなら、手伝ってあげたいと思う。それくらいの恩を、僕は彼女に受けていると思うから。
「……馬鹿にすんじゃないよ」
 長いまばたき。青い静脈の走るエルフィーナのまぶたを見つめていたら、震える声が僕の耳を打った。
 あれ、エルフィーナ、怒ってる?
「馬鹿にして!」
 エルフィーナがこんなに声を荒らげるのをはじめて聴いた。
 そう思った瞬間、僕の身体は床に転がっていた。
「エルフィーナ?」
 一瞬、頭が真っ白になったけど、僕はすぐに冷静さを取り戻して自分の身に起きたことを把握する。
 怒鳴ると同時に、エルフィーナが僕の左腕を強く引いた。彼女は特別に腕力があるわけじゃない。でも、不意をつかれた非力な僕はあっさりと引き倒されてしまったんだ。
「ふざけるな!」
 子どもの喧嘩のような、半分泣き声みたいな怒鳴り声。だけど、エルフィーナは止まらない。
 床に倒れこんだままの身体に、鈍い痛みを感じる。
 蹴られたんだ、と理解する間もなく、次から次へと怒りにまかせた痛みが降り注ぐ。
「アンタにあたしの何がわかるってんだい! そうやってあたしのこと、馬鹿にして、見下して、笑ってたんだろう!?」
 おなかも、背中も、頭も、そしてまだ出血の止まっていない左腕も、容赦なく蹴りつけられ、踏みつけられた。
 痛い。身体中が痛い。
「あたしが、自殺する度胸もない臆病者だから、アンタは、そうやって見せつけやがって!」
 違う。エルフィーナは誤解してる。
 僕は一度だってあなたを見下したり、ましてこの傷を見せつけてるつもりなんてなかった。
「あたしはアンタとは違う! だらだら血を流しながら笑ってられるような気違いなんかじゃないんだよ!」
 ふりあおいだエルフィーナの顔が歪んでいる。
 怒りと苦しみと、痛みの入り混じった泣き顔で、彼女は僕を睨みつける。そして、激情のままに彼女が掴んだワインの空き瓶が僕を目がけて振り下ろされた――。


 目を覚ました瞬間、痛みに襲われた。
 ある意味、新鮮な感覚だ。覚醒したとき特有の、夢かうつつかわからない曖昧な感じがない。起きた瞬間から自分の存在を強く意識できるなんて、僕にはちょっと嬉しい経験だ。
 とはいえ、身体を起こすことはおろか、首を動かすのすらしんどい頭痛にはちょっと辟易するけれど。
「アンタ……」
 泣きそうなエルフィーナの声。
 視線を動かすと、ベッドの脇に跪いて僕の手を握っている彼女の顔が見えた。
「……もう、起きないんじゃないかって」
 握り続けていた僕の手を放さずに、エルフィーナはそっとそれを持ち上げて、自分の頬に寄せた。
 それは十分に僕の怪我を気遣った動きだったけれど、それでも鈍い痛みが全身に響く。
 そうか、あの後、僕は気を失ったんだ。たぶん、最後に頭を殴られたのが効いたんだろうとは思うけど。
「ごめんよ……本当に……ごめんなさい」
 泣きながら謝るエルフィーナがひどく小さく見えて、僕は戸惑う。
 困ったな、謝られても、何を許したらいいのか僕にはわからない。そもそも、彼女を怒らせたのは僕なんだから、悪いのは僕じゃないんだろうか?
「いいよ」
 ちゃんと説明した方がいいのだろうけど、頭がとにかく痛くて、それ以上言葉が出てこなかった。
「だけど」
 食い下がる声が頭に響く。これはちょっと辛い。
 気を紛らわそうと視線をそらした。ふと目に入った窓の外が暗い。僕はどれくらい意識を失ったままだったんだろう。
「仕事……いいの?」
 これは、ちょっとずるいやり方かもしれないけど。
「え、でも……」
 エルフィーナが困ったように目を泳がせる。
 1日や2日休んだからって、どうなる仕事じゃないことは僕もよくわかってるんだけどね。
「僕は大丈夫だから」
「……わかった」
 音のない部屋に衣ずれの音を残して、エルフィーナが立ち上がる。
 のろのろと身支度をする彼女を視界の隅に収めて、僕は静かに呼吸を繰り返す。息を吸うたびに胸が痛いのは、きっと肋骨にひびが入っているからだろう。
エルフィーナが僕にくれた痛みが、僕の存在をここにつなぎとめている。そんな考えは悪くないと思った。
「いってらっしゃい」
 いつものように玄関口で見送ることはできないけれど、いつもと同じ言葉を彼女に投げかけた。
 途端に、ドアに手をかけていたエルフィーナの動きが止まる。そのままの姿勢でしばらく固まっていた彼女は、意を決したようにゆっくりこちらをふりむいた。
「……お願いがあるの」
 いつだって頼もしく、僕を姉のように母のように叱りつけてくれていた人が、親に捨てられた少女のように不安げな眼差しをこちらに向けている。
 僕は言葉を返すかわりに、少しだけ無理をして身体を起こした。
「許してとは言わない。わかってとも言わない。けど……」
 一度はいたたまれなくなったのか目をそらす。
 でも、エルフィーナは強い女性だ。すぐに彼女は、覚悟したように僕と再び視線を交錯させる。
「どこにも行かないで。あたしのそばにいて」
 ……嘘は人を傷つける。
 だから僕は、ただ微笑みだけを返すことにした。
「……ありがとう」
 泣きそうな顔で笑って、エルフィーナは夜の街へと出かけていった。
 階段を下りて遠ざかる足音を聴きながら、僕はそっと溜め息を漏らす。
 少し、胸が痛い。
 ずっと続いている怪我の痛みとは少し違う痛みなのかもしれなかったけど、僕はわからないふりをすることにした。
 痛みは痛み。
 それは、僕に僕の存在を教えてくれるだけのもの。
 だから、違いなんてあるわけがない。
 壁に手をついて、呼吸を整える。薄暗い部屋の片隅をじっと見つめて、僕はその時を待つ。
 まず聴こえてくるのは湿った足音。それに続いてちりちりと金の鎖がこすれあう硬い音。
 そして闇から静かに浮かび上がる白い人影。
 いつの頃からだろう、僕はこの白い影に誘われ続けている。
 それは何を言うわけでもない、ただ、僕の前に現れては誘うように駆け抜けていく。
 点々と残る血染めの足跡がエルフィーナには見えていないことに気づいたとき、僕はその意味を理解した。
 僕は彼女とは違うこと。ここは僕のいるべき場所じゃないってこと。
 わかっていた。だからせめて、別れる前に彼女の望みを叶えてあげたかった。
 でもそれも、僕の間違いのひとつに過ぎなかったのかな。
 現実感がなくても、世界がガラスを隔てた向こうにしか感じられなくても、それでも僕はここにいたかったんだと思う。
 だから、感じるかわりに考えて、観察して、ふさわしいやり方をちゃんと選んできたはずだった。でも、それも僕の勘違いか。小さなズレが重なって、僕はすっかり異質な存在になってしまった。
 でも、それもどうでもいいことなのかもしれない。
 壁に手をついて、僕はゆっくりと立ち上がる。
 エルフィーナが着替えさせてくれた寝巻きのままで、赤い足跡をたどる。
 明日の朝、仕事を終えて帰ってきた彼女は、からっぽのベッドを見てどんな思いを抱くのだろう。そんなこともちゃんと想像できない僕を、彼女は許してくれないかな。
 一歩踏み出すたびに、新たな痛みが僕を襲う。
 でもきっとこの痛みは、最後の最後にこの世界が僕にくれた贈り物なんだ。
 そして、踏みこんだ闇は、どこまでも穏やかに僕を飲み込んだ。


「ようこそ、首を長くしてお待ちしておりましたよ」
 闇に身を委ねた瞬間、痛みが消えた。
 かかげた自分の指先すら見えない深い闇のなかで、痛みすら失った僕は途方に暮れて佇むしかなかった。
 左腕に刻んだ傷痕を指でなぞって、ぼんやりと立っていたら、どこからともなく声が聴こえた。
「なかなか誘いに応じていただけないものですから、わたくしも困り果てていたところです」
 そうか、この声の主はあの白い影なんだ。
「さっそくですが、貴方のお名前をうかがってもよろしいですか?」
 なんだ、ここでも名前をきかれるんだ。まったく、厄介なことにこだわるんだなぁ。
「君が決めてくれないかな」
 せっかくなので、あの夜エルフィーナにしたのと同じお願いをしてみる。
「これはこれは、困った方ですね」
 たいして困ってもいないような声音で、それでもほんの少し意外そうに声が言う。
「致し方ありません。話を先にすすめましょう。では、武器をお取りください」
「武器?」
「これから貴方には、わたくしどもの国で殺し合いのゲームに参加していただくのです。そこで、戦い抜くための武器をこちらで提供させていただいております」
 殺し合いのゲーム、か。また随分物騒なところに呼ばれちゃったんだな。
「さあ、目を閉じて。望む力をイメージしてください」
 目を開けていても閉じていてもかわらない闇のなかで、わざわざ目蓋を閉じるのも奇妙な感覚だけど、僕はとくに意見もないので声の指示に従った。
「ふふ、もう目を開けていただいて結構ですよ?」
 目を開けると同時に、右手に重さを感じた。
 つい視線をそちらに移すと、いつのまにか握り締めていた華奢な剣が目に飛び込んでくる。さっきまでは自分の手も見えないほど深い闇だったはずなのに、少しずつ闇が薄らいでいるんだろうか。
「美しいレイピアですね。それで、多くの血の花を咲かせてくださること、期待しておりますよ」
 この剣で、僕は誰かを傷つけるって? まさか、そんなことはしないよ。
 僕には、僕以外を傷をつける意味も理由もありはしないんだから。
「それではお進みください。扉が見えますね? 殺戮の国はもうすぐそこです」
 殺戮の国、か。
 殺し合いのルールが支配する国で、僕みたいな人間はきっと長くは生きられないだろう。
 誰も殺さなければ、誰かに殺されるだけのこと。
 それなら、別にそれで構わない。
 僕は、言われるままに扉をくぐった。


 振りかざされた刃より先に、狂ったような怒号が耳に突き刺さる。
 楽しんでいるのか苦しんでいるのかよくわからない顔で、男が僕に斬りかかってくる。
 腰に携えた剣に手をかけることすらせずに、僕は冷たい金属が僕を切り裂いてくれる時を待つ。
 あの闇を抜けて、この国にたどりついてまだ数時間。僕が想像していたよりもはやく、僕の最期はやってきた。
「がぁっ!?」
 せっかくなので最期も目を閉じずにいようと男を見上げていたら、不意にその身体が掻き消えて、さすがの僕も少し驚く。
「ぃぎぃっ」
 そして僕の背後で聴こえる断末魔の苦鳴。
 そうか。男は消えたわけじゃなくて、僕に切りつける直前に、弾き飛ばされたんだ。
 声につられてふりむくと、僕の命を奪うはずだった男の首が奇妙に曲がって、光のない瞳がこちらを見つめているのと目があった。
「危ないところであったの」
 ゆったりとした女性の声が降ってくる。顔をあげると、きれいに着飾った女性が微笑んでいた。
「白兎、この者で間違いないのだな?」
「はい、陛下」
 優雅な所作で女性が声をかけると、聞き覚えのある声がうやうやしく答える。これは、僕を迎えた声だ。
「そなた、わらわに顔を見せてみよ」
 陛下と呼ばれた女性が僕に命じる。とくに逆らう理由もないので、僕はおとなしく従った。
「これはこれは、美しいのぅ。そなた、その左腕をもう少し上げてみせよ」
 左腕? 傷痕に興味があるなんて、変わってるな。
 怪訝に思いながらも腕を上げて見せると、女性の顔に満足そうな笑みが浮かんだ。
「いかがですか、陛下」
「気にいった。そなた、わらわのもとに来るがよい」
 女性がもてあそんでいた乗馬鞭が、僕の顎の下にあてられる。
 上向かされた視線の先で嫣然と微笑む女性の凄みのある美貌が、僕を捉えた。
「そなた、名を持たぬそうじゃの」
「……あなたは、僕に名前をくれるんですか?」
 エルフィーナがくれなかったものを、この人は僕に与えてくれるのだろうか。
「もちろんじゃ。そなたはわらわの王子。ハートの女王の愛し子。そなた、ハートのジャックと名乗るがよい」
 ハートのジャック。まあ、悪くないかな。
 この人は、名前を対価に僕を買ってくれた。たぶん、そういう理解でいい。
「はい」
 短い返事と頷きひとつで成立する契約。
 それが僕の価値で、僕のすべてで。
 それでも全然構わないくらい、僕にとって世界は遠いところにある。
 ただ、それだけのこと。


                                     This is the END of “The Scarless Scar”……