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「殺戮の国のアリス」番外編
葬儀屋の息子
 
 彼にとって最初の記憶、それはおそらく、屋敷の廊下に対する漠然とした不安感だ。
 広大な屋敷にふさわしく、両側にいくつもの扉を並べてまっすぐに伸びたその廊下の先に、もしも終わりがなかったら?
 迷い込んだが最後、力尽き命尽き、やがて骨ばかりになるまでに朽ち果てても、誰にも見つけてもらえなかったら?
 そんな他愛のない不安、それが彼のもっとも古い記憶だった。
 けれどその夜、わずか十一歳の少年であった彼にとっても、そんな不安は幼き日の風化した記憶にすぎなかった。
 深夜、窓から差し込む月明かりに誘われるようにして、彼は一人、廊下を歩いていた。
 何か目的があってのことではない。ただ、なんとなく寝つけなかったのだ。

 それが彼の人生を決定づける夜になることなど、もちろん知るよしもない。

 真っ白な絹の夜着に身を包んだ少年の裸足が、毛足の長い赤い絨毯を音もなく踏み進んでいく。
 彼の父がこだわって遠い異国から取り寄せたそれは、形容しがたい柔らかさでもって、少年の足を受け止める。彼にはほとんど理解できない父の贅沢のなかでも、絨毯の趣味だけは親子らしくぴったりと一致していたらしい。
 鼻歌でも歌いだしそうな上機嫌でささやかな散歩を楽しんでいた彼が、不意に足を止めた。
 廊下の最奥、並んだ扉たちとは一線を画する重厚さと威圧感を備えた両開きの大扉。その片方が、わずかに開いていた。
 大地の女神の意匠を彫りこんだその扉の向こうは、両親の寝室である。
 室内に明かりは灯されていないようで、開いた扉の隙間から漏れでるのは、廊下に窓枠の影を落とすのと同じ、あえやかな月影ばかりだった。
 ほんの些細な違和感。たとえばそれは、両親がうっかりと扉を閉めそこねただけのことかもしれない。だが彼は、予感していた。
 扉の向こうには、非日常が待っている。

 そっと扉の隙間を広げ、彼は両親の寝室に滑り込んだ。
 隅々まで父の趣味が行き届いた、豪奢な内装の寝室。廊下よりも一層上質な絨毯の、青を基調とした精密な意匠の一部が暗く汚れていた。
 広がり続ける黒い汚れの中央にうつぶせに倒れた父親の、西瓜のように破裂した後頭部が目に飛び込んでくる。
 次いで、壁際に腰を抜かしたようにへたりこむ母親の、恐怖と絶望に彩られた瞳と目があった。
「だめ……」
 化粧を落とした夜でさえ、ふっくらと潤ってみえる貴婦人の唇が、震えるように言葉を紡ぐ。
 思えばそれは、愚かな行為だ。
 彼女自身は、そうすることで、危険に迷い込んでしまった息子を遠ざけようとしたのだろう。しかし、言葉を発することで、もっとも恐れるべき危険そのものにも、闖入者の存在を知らせてしまう結果となった。
「……!?」
 興奮に肩を震わせながら、息を荒げて犠牲者を見下ろしていた人影が、はっとして少年の方を振り向く。
 窓から差し込む月明かりを背から受けたその人物の顔は暗い。まるでぽっかりと空いた黒い穴のようにも見えるその顔を、少年はただぼんやりと見つめかえした。
 結果的には、恐怖も焦燥も敵意も何もない、その茫洋とした表情が良かったのかもしれない。殺人者はとりあえず少年を捨て置き、当初の目的を遂行することを選んだ。
「やめ……っ!」
 あられもなく張り上げられるはずだった少年の母親の悲鳴は、当たり前のように途中でぷっつりと途切れた。
 パン、というひどく乾いたあっけない音。
 そうして、断末魔さえ許されなかった母親は、ユリの模様の壁紙に血と脳漿の大輪の花を咲かせて、ずるりと崩れ落ちた。
 少年は動かなかった。
 ただその瞳に月明かりの映りこむ奇妙な光を灯して、じっと目の前の光景を見つめていた。
「こっちへ来い!」
 硝煙をかすかにくゆらせる凶器を手に、殺人者が短く命じる。
 そのまま銃口を少年に向け、引き金を引けばば終わるはずなのに、奇妙な命令である。だが少年は、あえて逆らうことはしなかった。
 指示に従い、部屋の奥へと歩を進める。
 じっとりと湿った絨毯を踏むと、足裏にまだ生暖かい両親の血を感じた。
「坊ちゃんか」
 問うともなく呟いて、殺人者は凶器を持った右手をだらりと下ろした。
 窓の方に移動したことで、少年には相手の顔が判別できるようになったが、あいにく記憶のどこにも目の前の男の顔は見当たらない。
「マルティナ・デイヴィスを憶えてるか?」
 壊れやすいガラスの置物をそっと扱うような声音で、男はその名を紡いだ。
 その問いかけに、少年はこくりと頷く。
 それは、半年ほど前に死んだ彼の家庭教師の名前だった。
「あいつは、俺の妻だった。そして……こいつらに殺された」
 低く搾り出すような声で、男が言う。憎しみをそのまま言葉の形に凝り固めたような言葉をそのまま耳に受け入れながら、少年は内心首をかしげる。
 表向きには転落事故とされているマルティナの死。それが不自然なことくらい、彼はもちろん理解している。マルティナは窓から落ちたのではなく、飛んだのだ。
 しかし彼女の選択の理由までは、少年の知るところではないし、別に興味もなかった。家庭教師がいなくなれば、新しい教師がやってくる。それだけのことである。
 だから、男の発言の妥当性は少年にはわからない。事実、彼女の死に自分の両親が関わっているかどうかなど、どうでもよかった。
「……おい、坊ちゃんよ」
 そんな少年の沈黙をどう理解したのだろうか、男が不意に口を開いた。
「何故、人は死ぬ?」
 唐突な問いだった。
 先ほどまでの怒りや憎しみは影をひそめ、虚ろすら感じさせる問いかけ。
 それはこの夜はじめて、少年の奥底に響いた言葉だった。
 男の目は、少年を見ていない。自らの手で頭を撃ち抜いた犠牲者の骸も見ていない。その視線は窓の向こうに何かを求めるかのように、ぼんやりと月明かりに寄り添っていた。
「……忘れろ」
 そう言って、男は踵を返した。
 わずかに開いたままになっていた扉の向こうへと気配を殺して遠ざかっていく男の後姿を、少年はただ見送る形になった。
 部屋にはただ二人の人間の死体と少年だけが残された。
 理不尽に断ち切られた両親の命を前にしながら、少年の表情はまるで夢でもみているかのように柔らかく、甘い。
 湿った足音を立てて、少年は温度を失いつつある父親の身体の傍にひざまずいた。
 真っ白な夜着が、月明かりの下でも赤黒く染まっていくのがわかる。そんなことも、少年は一向に気にならない様子だった。
 血の海のほとりから、少年はそっとあるものを拾い上げる。父親が護身用にと枕元に常に隠し持っていた猟銃だった。
 実際にはまったく役に立たなかったそれを、少年は確かな手つきで取り上げる。幸い、血に濡れてはいない。これなら、問題なく使うことができるだろう。
 銃の扱いは十五歳になったら教える、それが父親との約束だった。
 結局、その約束は果たされないまま父親は逝ってしまった。だが少年はそれを気にする様子もない。教えてもらわずとも、彼は密かにそれを自ら学んでいたからだ。
 小柄で痩せっぽちの少年が扱うにはあまりにも無骨で大きな鉄隗を、彼は窓枠と己の身体を使って器用に支えてみせる。
 わずかに開けた窓から滑り込んできた清冽な夜の空気が、かえって、室内に立ち込めた死の匂いをはっきりと際立たせた。
 呼吸を整える必要もない。完全に落ち着き払った穏やかな息遣いのままで、少年は窓の向こう、眼下に広がる白亜のロータリーを見下ろしていた。
 そしてついに、彼の待ち人がやってくる。
 月明かりに青白く照らされた石造りのロータリーを、黒い影が急ぎ足に横切っていく。
 先ほどまでこの部屋にいて、屋敷の主である夫婦を撃ち殺した黒衣の男は、真っ白な紙に落とされたインクの一滴のように見えた。
 インクを撃ち抜くことにためらう者などいるはずもない。
 消音装置などついていない少年の銃が、夜を切り裂く。
 腹に響く銃声と衝撃を、少年はうっすらと笑顔を浮かべて受け止めた。
「ああ……ずいぶん、簡単だな」
 ロータリーの一角で動きを止めた男の姿は、まるで本当にインクの染みに成り果ててしまったかのようだ。
「面白い問題だったけど……」
 用済みとなった銃を投げ出し、少年は窓枠にもたれて小首をかしげる。
 何故、人は死ぬ?
少年はぼんやりと、その答えに思いをめぐらしていた。
 先ほどの実験で、人の命を絶つことが存外簡単であることはわかった。だが、その理由となると、まるでお手上げだ。
「よく、わからないや」
 どれほどそうして考え込んでいただろうか。
 銃声に眠りを妨げられた家人が騒ぎ始めているのに、少年はふと気づいた。
 ロータリーに倒れる男のそばを、使用人の男がおろおろと落ち着きなく動き回っているのが見える。
 この部屋にも、すぐに人がやってくるだろう。
「面白くなりそうだったのにな……あーあ」
 心底がっかりしたようにそうごちて、少年は派手な水音をたてて床に座り込む。
 落胆と、かすかな苛立ちに駆られて勢いよくそうしたものだから、水溜まりを作っていた両親の血が白い頬にまで跳ねて赤い跡を散らした。
「やっぱり、退屈……」
 不満そうに唇を尖らせて、少年は天を仰ぐ。
 彼にとって、殺された両親より、自分が狙撃した男より、気がかりなのはそれだった。
 退屈――。
 若干十一歳にして、彼はひどくこの世界というものに飽いていた。
 そして彼にとって、それ以上の苦痛は存在しなかったのだ。


 数日後、この国一番の葬儀社の社長夫妻の最期にふさわしく、盛大で荘重な葬儀が営まれた。
 葬儀ビジネスの専門家として、父親は形式よりも心を大切にするという経営方針を掲げていた。
 故人の遺志に従い、列席者たちは皆神妙な面持ちを崩さず、ただ一人遺された少年の幼い喪服姿に、目元を押さえる婦人の姿も見られた。
 だが、いくら表面を取り繕っても、真実は隠しきれるものではない。大企業の長の急逝の水面下では、遺された者たちの思惑が複雑に絡み合っていた。
 少年が唯一にして絶対の相続人であることに疑問をさしはさむ余地はない。だが、彼はまだ幼く、当然、会社を背負っていくことなど不可能だ。
 誰が少年の後見人となるのか、露骨に口に出す者はいなかったが、誰もがそれを気にしているのは明らかだった。
 例外はおそらく、棺にとりすがり、嗚咽を隠そうともしない一人の少年だけだ。
「ジョシュア、どうしてそんなに泣くんだい?」
 そのあまりに悲痛な泣きっぷりに、両親を殺されたばかりの少年が声をかける。
 この場でもっとも悲しんでいるはずの少年は、口元にかすかな笑みすら浮かべていた。
「伯父様と伯母様が亡くなったんだ、悲しいに決まってるよ」
 泣きはらした目を上げて、ジョシュアは泣きじゃくりながらそう言った。
「ふーん、ジョシュアは優しいね」
 それにくらべて、当の少年の答えはあっさりとしている。不謹慎にも微笑んでいるのは、自分には理解できない感覚を持ち合わせている従兄弟が面白いからだろう。
「そんなことないよ。君の方がもっと悲しいし、辛いはずだよ」
「うん、そうだね」
 口ではそう言っていても、少年の口元はわずかにほころんだままだ。
 だがその異常にもジョシュアは気づかない。彼はまた、身も世もない大声で、少年の両親の名を呼びながら夢中で泣き崩れているのだから。
「ジョシュア、いい加減に泣きやみなさい。伯父様と伯母様を、静かに送ってさしあげなくてはだめよ」
 それは、この場にふさわしく低く抑えられていたが、柔らかく芯のとおった美しい声だった。
「エルザ叔母様」
 少年は彼女に向かって礼儀正しく一礼し、できうる限りの親愛をこめてその名を呼んだ。
「ああ……」
 エルザは何かを言おうとして結局言葉にできず、ただ少年をきつく抱きしめた。
「……辛かったでしょう、本当に……」
 少年の華奢な身体が確かにそこに存在していることを確かめるかのように強くかき抱き、エルザはようやくそれだけを言うことができた。
「ありがとうございます、叔母様」
 それに対して、少年の方は凪いだ海のように穏やかだ。
 だがそんな表情をかえって深い悲しみゆえのものと受け取って、エルザは形の良い眉をぎゅっと寄せて、その顔に浮かぶ哀悼の色を濃くした。
 心優しい親子の間で、少年はどこか上機嫌にすら見えた。
 彼には予感があったのだ。強く美しい叔母と、繊細な従兄弟――この二人が、彼の退屈を紛らわせてくれる存在になるという。


五年の歳月が、瞬く間に過ぎていった。
その間も、両親を殺した男を少年が撃ったという事実が明るみにでることはなかった。誰もがそれは、少年の父親が死の間際、殺人者に一矢報いた結果だと理解していたからである。
明らかに即死したであろう父親の死の状況を考え合わせれば不審な点は多いはずだが、少年に疑惑の眼差しが向けられることはなかった。
少年はあくまでも、理不尽に両親を奪われた哀れな存在であり続けたのである。
「ジョシュア。地下室はそんなに面白いのかい?」
 十六歳になった少年は、そう言って従兄弟に微笑みかけた。
「え、あ、ああ。ごめん、つい夢中になっちゃって……」
 地下室を改造して作り上げた二人のための実験室のなかで、真剣な眼差しでフラスコを振っていたジョシュアが顔を上げる。
 少年の正式な後見人としてエルザが選ばれたのをきっかけに、親子はこの屋敷に移り住んだ。
 それから五年、エルザは会社の経営だけではなく、少年の親代わりとして惜しみない愛情を注ぎ続けてきた。
 そして、同い年であった少年とジョシュアは、今では実の兄弟のように近しい関係を築き上げている。
「君は本当に熱心だよね。頭が下がるな」
 実験に没頭するジョシュアへの差し入れとして持ってきたクッキーと紅茶を実験机に並べて、少年はおどけた声音で言う。
 両親の殺害を目の当たりにするという悲劇に見舞われたことが信じられないほど、少年はよく笑う若者に成長していた。
 薄く形の良い唇は常に微笑みの形に口角が上がっている。それがあまりに魅力的であるが故、その口元の少し上、少年の瞳の色に気づく者はほとんどいなかった。光の角度で時折金色にきらめくようにも見えるその瞳は、笑っていないわけではない。だが、奥まで覗き込もうとしたならば、そこに宿る底知れない色に気づくはずだ。
「そんなことないよ。成績だって君の方がいいし。母さんだって、いつも少しは君を見習えってうるさいしね」
「でも、僕には君みたいな情熱はない」
「たぶん、僕は要領が悪いだけだよ……」
 そう言いながら、ジョシュアは恥じ入るように視線を落とし、実験する手を動かした。
「そんなことないよ。ほら、ちょっと休憩したら?」
 すぐに落ち込んでしまう気の弱い従兄弟を気遣うように、少年は温かな笑顔で差し入れを勧めた。
「うん、ありがとう」
「ところで、あの薬はどう? 完成させられそうかい?」
 人心地ついたところで、少年はそう軽い口調で切り出した。
「ああ、それなら」
 優秀な従兄弟に自身の研究成果を披露できることが嬉しいのだろう。ジョシュアはぱっと表情を明るくして、席を立った。
「ほら。実験では計算どおり」
 嬉しそうに言って、ジョシュアは少年の前に小さなガラス瓶を置いた。
 そのなかには、黄緑色の小さなカプセルが半分ほど満たされていた。
「さすがだね。やっぱり君はすごいよ。僕の技術じゃ、こんな合成は無理だ」
「そんな、僕なんて……君の構造式の精度が高かったからだよ。僕はその通りに作っただけさ」
 手放しの賞賛が気恥ずかしいのか、ジョシュアはクセのある柔らかな髪を片手で掻き回して、照れた笑顔を見せた。
「試してみてもいい?」
「うん……だけど今は」
 首肯しながらも、ジョシュアは複雑な表情で目を逸らした。
 視線の先には、実験室の片隅の床に置かれた大きなケージがある。そのなかでは、十数匹の白いウサギが身を寄せ合い、真っ赤な瞳を不安げに揺らしていた。
「今は、調子の悪い子がいないから……」
「そっか。それは残念だね」
 少年はあっさりとそう言いながら、小瓶を持って立ち上がる。
「じゃ、ちょっとかわいそうだけど」
「えっ……」
 戸惑いにジョシュアが腰を浮かせるのを片手で制して、少年はケージのウサギたちの方に向かう。
 その内の一匹を抱えあげて、実験机の上に移動させると、少年は黄緑色のカプセルを一つ取り出した。
「や、やめようよ、かわいそうだよ」
「うん。けど、健康な個体にも効果があるか、どっちにしても調べておくべきだよ」
「あっ」
 ジョシュアの言葉を軽く聞き流し、少年はひどく優しい手つきでウサギにカプセルを与えた。
 疑うことを知らない小さな命はそれを口に入れ、そして、かすかに痙攣してから永遠にその動きを止めた。
「いいね、これなら苦しくない」
 薬の効きの良さに満足したのか、少年の口元の笑みが深くなった。
「ありがとうジョシュア」
「でも……」
「これはすごいことなんだよ。この薬があれば、苦しまずに死ぬことができる。最期に安らかな死を望む、多くの人の助けになるんだ」
「う、うん……」
「君はとてもいいことをしたんだよ。自信を持っていい」
「うん……そうだよ、ね…?」
 少年にすがりつくように見上げてくるジョシュアの眼差しを笑顔で受け止めて、少年は力強く頷いてみせた。
 その研究は、二人だけの秘密だった。
 言い出したのは少年の方だ。不治の病で苦しむ人々や、死にたくてもなかなか死ねない重傷患者を救うため、安楽死の薬を開発する。
 人の命を奪う薬を作り出すことに、もちろんジョシュアは抵抗した。だが、少年の根気強い説得で、その抵抗が崩れ去るのは時間の問題だった。
 優秀で鷹揚な従兄弟に、ジョシュアは心酔しきっているようなものだったからだ。尊敬する相手に自らの技術を褒められ、必要とされる喜びに、彼が逆らえるはずはなかった。
 少年の計画に従って薬を精製し、死期が迫ったウサギで実験を繰り返したのはジョシュア自身だ。
 すでにその手を汚してしまった彼は、多少強引にでも自分自身を納得させるしかなかった。
「じゃあ、ジョシュア。またあとで」
「え、あ、うん」
 死の薬が入った小瓶をポケットに滑り込ませて、少年はジョシュアに別れを告げた。
 唐突にも思えるその行動に一瞬面食らったジョシュアも、その天使のような笑顔には応じるしかない。それに彼には、まだ続けたい実験もあった。
 実験室を出て、地下室の階段を上りながら、少年は上機嫌だった。
「あとは、人体実験だな」
 少し気を抜いたら、鼻歌でも歌いだしてしまいそうな気分だった。彼がずっと望んでいたものが手に入ったのだから、それも当然のことだ。
 優しいジョシュアは、少年の本当の目的を知らない。
 どこまでもシンプルで身勝手な、少年だけの論理。
 自らの退屈を紛らわせるため、少年はジョシュアの薬を利用する。


「本当に、苦しまずに死ねるのか?」
 窓のない空間は、狭い倉庫のようだった。
 ランプの灯り一つが光源の薄暗い室内で、どこか思いつめたような男の声が澱んだ空気を震わせる。
「効果は実証済み。信じるかどうかは君の自由だけど」
 少年の声は暗がりのなか、一段高い場所から降ってきた。
 ランプを背にした少年の顔は影になっており、その表情は窺えない。だが、少年の方からはよく見えるはずの男の顔を見下ろしながら、その声はどこか楽しげだった。
「……わかった。薬を譲ってくれ」
「いいよ。でもその前に」
 色濃い疲労と絶望に彩られた男の顔を興味深げに眺めながら、少年はあっさりと応じ、淡々と条件をつきつけた。
「君が死にたい理由を教えて」
 そして男が語りだしたありふれた悲劇に、少年は身を乗り出すでもなく、腰かけた木箱の上で足をぶらぶらと遊ばせながら耳を傾けた。
「ふーん、そうなんだ。大変だったね」
 一人の人間が死を選ぶまでに追い詰められたその過程を聞いた少年は、ひどく退屈そうにそう言った。
「じゃあ、どうする? お金払う? それとも、僕の前で死ぬ?」
 語り終えた相手にもはや興味はない。
 少年はいつもの笑顔を口元に浮かべたまま、つまらなさそうにそう問いかけた。
 ジョシュアが作った死の薬。それを自殺志願者に提供するかわりに、その死の理由を語らせ、代金を支払うか、目の前で死ぬかを選ばせる。
 それが、少年が考え出した退屈しのぎの遊びだった。
「金は……ない」
 苦しげに男が呟く。
 それを聞いた瞬間、少年の飽いた瞳に一瞬きらりと光が戻る。
「そっか。わかった。それじゃ、見せて?」
 絶望に駆られた男に残されたプライドはない。
 自分の子どもほどに年の離れた少年の前で、男は黄緑色のカプセルを飲み込んだ。
 あの日のウサギのように小さく痙攣し、男の体が埃の積もった床に倒れ伏す。
「あーあ、やっぱり、簡単だ」
 莫大な遺産と会社を相続する少年は、もともと金に興味はない。
 ただ、金が人を簡単に死に追いやる力を持っていること、人の尊厳を根こそぎ奪い去る力を持っていることはよく知っていた。
 だからこそ、代金の支払いを条件にしたのだ。けして安くはないが、自身の安らかな死を買うためならば、法外とは言い切れないぎりぎりの価格設定にこだわった。
 金がないというそれだけのことで、自らの死を少年のためだけのショーに仕立て上げねばならない自殺志願者たちの決断は、少年の好奇心を刺激した。
 いかにも苦渋の決断といわんばかりの苦悩を滲ませる者、もはや何かを考えることができないほどに心をすり減らし、淡々とそれを受け入れる者――様々な人間がいた。
 その多様さこそが、少年を楽しませる。
「何故、人は死ぬ?」
 あの日、両親の遺骸を前に自身に投げかけられた問いを、少年は目の前の死者に問いかける。
 答えが返ってくるはずもないその問いを投げたまま、少年はもはや興味を失ったかのように、落ち着いた足取りでその場を後にした。


 少年の礼儀正しいノックに対して、よく通る声が入室を許可した。
「僕をお呼びと伺いました、エルザ叔母様」
 少年が足を踏み入れた執務室では、エルザが経営者の顔で忙しく手を動かしていた。
「ええ、ちょっと話があるの」
 激務の疲れもあるのだろう。エルザの目もとには濃いクマができていた。
 それでも、強く鋭い瞳が、まっすぐに少年を捉えている。
「なんでしょう? 随分コワいお顔ですが……僕、何か叱られるようなことでもしちゃったかな」
 険しい視線をまっすぐに受け止めても、少年は笑みを崩さない。
「心当たりはあるはずよ」
 エルザの声に、非難の色が混じる。
「さあ?」
 それでも少年は、あっさりとそれを受け流した。
「私があなたの”遊び”に気づいていないとでも思ってるの?」
 ぴしゃりと言い放ちながらも、エルザの瞳に隠しきれない憂いの色が滲んだ。
「ご存知でしたか」
「あなたの夜の外出が目立つから、調べさせたの」
「ああ、そうか。もうちょっと気を遣うべきでしたね」
 応じる少年はまったく悪びれない。
 エルザの声と表情に宿る哀しみの色が強まった。
「自分のしていることの意味が、わからないの?」
 エルザは確かに悲しんでいた。我が子同然に慈しんできた少年が、いつのまにか自分の手の届かない存在になってしまったように感じていた。
「自殺幇助にあたりますか。僕は犯罪者ですね」
 少年は微笑む。目の前の叔母の表情の変化を、そこから見え隠れする苦悩を、彼は面白がっていた。
「本当に、わからないの?」
「あいにく、刑法はまだ勉強中なんです。条文が多すぎるもので。ふふっ、これだけ分厚い刑法典が必要だなんて、人間は罪深いですね」
「どうして……? あなたはそんなふうに、命を弄ぶような子ではなかったはずよ」
 少年はエルザの顔に釘付けになっていた。
 怒りと哀しみ、苦悩と困惑が混じりあったその表情は、少年がはじめて見るものだったからだ。
 その面白さに、少年は抗いがたい魅力を感じはじめていた。
「それは叔母様の誤解です」
 だから少年は試してみることにした。
「僕が最初から、あなたが思うようないい子ではなかっただけのことです」
 もっと、もっと面白くしたい。
 そのためには、エルザを壊してしまっても構わない。
「そんなこと、ないわ。あなたは」
「いいことを教えてあげますよ、叔母様」
 高ぶる期待を抑えきれず、少年は少し早口になってそう切り出した。
「僕のことならなんでも知ってる叔母様も、さすがにこれは知らないでしょう。ねぇ叔母様。僕の両親を殺した男、彼を殺したのが本当は誰か、知っていますか?」
「それは……お兄様が最期に……?」
 唐突な問いに、エルザは戸惑いと訝しさに駆られながらそう答えかけ、そして途中で口を閉ざした。
「さすが叔母様は勘がいい。そう、死人に人殺しはできません」
 少年はエルザの顔から一瞬たりとも視線を外すことなく、満足そうに唇の端を吊り上げた。
「あれは、僕がやりました。ちょうど、父の護身用の猟銃があったから、僕が撃ち殺しました」
「……そ、それは……きっと、動転していたのね、だって目の前で、だから……」
 驚愕に目を見開いた一瞬、エルザの顔に走った恐怖と嫌悪の影を少年は見逃さなかった。
 だがエルザはすぐにそれを追い払い、慈母の心で必死に言葉を継ぐ。
「いいえ、叔母様。僕は混乱していたわけでも、まして、両親の敵討ちがしたかったわけでもありません。ただ、面白そうだからやってみただけです」
「……!?」
 今度こそ、エルザは絶句した。
「両親を撃ち殺した後、あの男はずいぶん興奮していました。僕はそれを、興奮するほど面白かったってことだと思ったんです。羨ましかったな」
「……あなたは」
 口を挟もうとするエルザの震える声を遮って、少年は続ける。
「ねえ叔母様、日常って、どうしてこんなに退屈なんでしょうね? 僕は楽しいことが大好きです。だから、面白そうだから試しに撃ってみたんです。まあ、実際は思っていたよりずっと簡単で、あんまり面白くなかったのは残念でした」
 少年の告白に、エルザはどう返してよいかわからなくなっていた。
 その表情すらも楽しみながら、少年は落ち着いた声音で語りかける。
「どうして、と叔母様はお聞きになった。もう僕の答えはわかるでしょう? そう、退屈しのぎです。人が死ぬ理由とか、死ぬ時の姿とか、結構いろいろあって面白くって。でもさすがに最近はパターンみたいのがわかってきちゃって、つまらなくなりはじめてたところです。だから、叔母様がやめろとおっしゃるなら、やめてもいいですよ、別に」
 エルザの答えを待つために、少年は黙った。
 その第一声に期待しながら、じっとエルザの表情を観察し続けた。
「かわいそうに……」
 長い沈黙の果て、エルザはようやくそれだけを呟くと、席を立った。
 彼女はそのまま、少年との間を隔てていた大きな机を回り込み、落ち着いた足取りで少年の前に立つ。
「ごめんなさい」
 少年がその言葉を聞くのと、頬に熱い衝撃を感じたのはほぼ同時だった。
「ん……?」
 そっと自分の頬に手をやって、少年は自分がエルザに平手で叩かれたことを知る。
「ごめんなさい」
 同じ言葉を繰り返しながら、今度はエルザは少年を抱きしめた。
 ユリの香りのする叔母の腕に抱きすくめられながら、少年はこの展開に興奮が隠せない。
「あなたの苦しみに気づいてあげられなくて、ごめんなさい」
 まだエルザは誤解をしている、と少年は思った。
 だが、それも含めて面白かった。エルザは少年の歪みを認めない。それを不幸な行き違いの結果と思い込むことで、自分も少年も救おうとしている。
「大丈夫、大丈夫……まだ、やりなおせるから」
「それじゃあ叔母様、僕と賭けをしませんか?」
 エルザほどの人物でも、真実に目をつぶり、都合のいい物語を作り上げようとする。
 それは面白い発見だったはずなのに、少年はどこか落胆を感じている自分にも気づいていた。
 落胆はよくない。それは高揚した気分に冷水を浴びせ、退屈を呼び込んでしまう。
 だから少年は、もう一歩踏み込むことにした。
「これから一週間、ううん、三日でいいか。三日間、あなたが絶望に死を選ぶことがなかったら、僕は叔母様が望むような人間になれるよう、心を入れ替えます」
「何を言ってるの? どうしてそんな……」
「信じたいんです。違う人間もいるんだってことを。生きることの苦しみや痛みに、負けない人間がいるんだってことを」
「……いいわ。あなたに見せてあげる。私は絶対に絶望したりしない。どんなことがあってもあなたとジョシュアを守り、愛し続けることを約束するわ」
 エルザの声には強さがあった。自分の信念を疑わない、迷いの欠片もないその言葉に、少年は笑い出したくなる衝動を必死で押さえ込んだ。
「だそうだよ、ジョシュア!」
 かわりに、笑いを含んだ陽気な声で、少年はジョシュアの名を呼んだ。
「ジョシュア……!?」
 少年を抱きしめたまま、驚きに顔を上げたエルザと、呼びかけにこたえて執務室の扉を開いたジョシュアの目が合う。
「ちゃんと聞いてたかい、ジョシュア? 叔母様は、僕たちの薬が嫌いなんだって」
「母さん……」
 ジョシュアは、エルザに呼び出された少年をしきりに心配した。
 だから少年は、彼を執務室の前まで連れてきて、なかでの会話に聞き耳をたてさせていたのだ。
「ごめんよ、ジョシュア。僕は君の薬はみんなを幸せにできると思ってた。だから君に内緒で君の薬を苦しんでる人に配ってたんだ。みんな感謝しながら死んだんだけどね、叔母様のお叱りを受けたから、もうやめるよ」
「母さん……ごめ、ごめんなさい、ごめんなさいごめんなさい」
 泣き出しそうな顔で、ジョシュアは謝罪を繰り返す。
 それでも、その顔に涙は流れない。あまりに強い衝撃を受けたとき、人は泣き方すら忘れてしまうのかもしれなかった。
「ジョシュア……どうして……?」
「あれ、そこまでは調べていなかったんですね、叔母様。あの薬、考えたのは僕だけど、実際に精製して作ってくれたのはジョシュアですよ」
「ごめんなさい、ごめんなさい……」
「まさか、そんな……」
 エルザの声は呆然としてかすれている。そこに、常に自信と慈愛に満ちたいつもの彼女の美声の面影はない。
「ごめんなさい!」
 そんな母の声に何を感じ取ったのだろうか、ジョシュアは喉を切り裂くような悲痛な謝罪の言葉を残し、その場から走り去った。
「ジョシュア!」
 いつのまにか、少年を抱きしめていた腕は消えている。
 ジョシュアと少年を分け隔てなく扱い、愛してきたエルザも、やはり一人の母親に過ぎなかった。
「あーあ、悪いこと言っちゃったかな。ごめんなさい、叔母様。やっぱりジョシュアをここに連れてくるべきじゃありませんでした」
「あ、あなたはっ」
 エルザの声と表情に、怒りが戻ってきた。
 それだけではない、そこに宿る確かな憎しみの色に、少年は嬉しそうに目を細くした。
「ありがとう、叔母様。あなたとジョシュアには、本当に退屈しないよ」
 終わりだった。エルザの顔から、少年への哀れみと愛が完全にかき消える。
 激情に駆られるまま、彼女が少年に手を上げるのと、階上から使用人の女性の悲鳴が響き渡るのとはほぼ同時だった。
「ジョシュア様がっ!」
 何か重たいものが大地に打ち付けられる、鈍い音が聞こえたような気がした。
「ジョシュア!」
 エルザが叫ぶようにその名を呼び、執務室を飛び出していく。
 少年は落ち着いて、窓まで歩いていくと、そこから下を見下ろした。
「あれ、これ、どこかで……?」
 父親が世界中からこだわりぬいて取り寄せた白い石材で覆われた白亜のロータリーに、ジョシュアがその身をもって咲かせた小さな赤黒い花が見えた。
 大地に這う薔薇のようなその眺めに既視感をもって、少年は小首を傾げて下界の混乱を見つめる。
「あ、そっか。デイヴィス先生と同じだ」
 マルティナ・デイヴィスの転落死。思えば、すべてはその不幸な事件からはじまったことなのかもしれない。
 だが、運命の皮肉な符号も、少年にとっては興味をそそる面白い話の一つにしかすぎない。
「ふふっ、面白いな」
 窓枠にもたれた少年は、それからジョシュアの遺骸がすっかり片付けられてしまうまで、飽きることなくその様子を眺め続けた。


 新しい後見人に選ばれた男は、慎重で賢明だった。
 一族の力によって、一連のできごとが世間に公になることはなかったが、少年の狂気は今や、この屋敷では公然の秘密である。
 後見人の男は、屋敷に住むことを拒否し、ただ経営者としての責務を果たすためだけに通うことを選んだ。もちろん、少年と挨拶以上の関わりを持つことはない。
 少年は今では、誰に気兼ねすることもなく、退屈を紛らわせる遊びを追求することが許されていた。
「うーん、暇だな……」
 だが、その表情はいまいち晴れない。
 やはりエルザとジョシュアは、少年にとって最高の玩具だったのだ。
「たまには、行ってみようか」
 ついに、退屈を持て余した少年は立ち上がり、けして自分と目を合わせようとしない使用人たちの間をすり抜けて、屋敷の外に出た。
 屋敷の裏には、自然をそのままに残した広大な敷地が広がっている。
 狐狩に最適な森の手前、静かな丘の上に、彼が目指す場所がある。
「やあ、ひさしぶり」
 そこは、一族の墓地だ。
 少年はまっすぐに、真新しい墓石が二つ並んだ一角へ向かった。
「君たちがいなくなって、僕は本当に退屈だよ」
 エルザとジョシュアの名前が刻まれた御影石に、少年は語りかける。
 その口調はうんざりとしているが、やはり口元には笑みを浮かべたままだ。
 ジョシュアが身を投げた翌日、エルザは自室で首を吊っている姿で発見された。
 つまり、少年は賭けに勝ったことになる。
「ねえ叔母様、あなたは最期に僕のことを憎んでくれたね」
 だが少年は理解していた。
 エルザは死をもって、少年に決別を伝えたのだ。エルザが生きていれば、少年は真人間になる努力をすると約束した。
 裏を返せば、エルザの死は、エルザ自身が少年を見放したことの表れにほかならない。
「まだやりなおせるって言われた時は、笑いをこらえるのに必死だったよ。でも、最期にわかってくれてよかった。ね、やりなおすとかそういう問題じゃないんだ」
 少年の笑顔は美しい。
 それはまるで、真摯に母への愛を語る子どものような横顔だった。
「僕はもともと、退屈が苦手なだけだよ」
 最近少年は、屋敷の廊下に終わりがないことを恐れた子ども時代のことを思い出すことがある。
 今になってみれば、彼が本当に恐れていたのは、終わりのない場所に迷い込み、たった一人で朽ち果てることではなかった。
 幼い彼が無意識に恐れ、今も彼がもっとも恐れるもの、それは終わりのない退屈だ。
「じゃあ、また」
 屋敷の温室から摘んできた花束を墓に供え、少年は軽やかな足取りでその場を後にする。
 誰もいない少年だけの庭に、冷たさを増した秋風だけが吹いていた。
「ん?」
 不意に、少年の視界の隅に、見慣れない影がよぎった。
 秋風に寄り添うような人影は、少年の目に白さばかりを印象づけて駆けていく。
「あれは、なんだろう?」
 目をこらして見つめていると、白い影の足音が耳に飛び込んできた。
 ぺちゃぺちゃと妙に湿った足音が、風に揺らぐ秋の草原に足跡を残していく。
 まるで少年を誘うかのように点々と続く足跡は、真っ赤に染まっていた。
「へぇ、面白そうじゃないか」
 迷うことなく、少年は白い影を追いかけはじめた。
 影が身につけた金色の懐中時計の鎖が、ちりちりと涼やかな音を立て、少年は不意に心地よい浮遊感に包まれた。


 少年が目を開けると、そこには暗闇だけが広がっていた。
 おかげで、目を閉じていても開けていても、見えるものが何もないという事実は変わらない。
「殺戮の国へようこそ」
 何も見えない空間で、唐突に声が響く。
「わたくしは偉大なるハートの女王の僕、白兎です」
「ああ、もしかして、さっき僕が追いかけたのは君?」
 少年は楽しげな声で返した。
 得体の知れない場所に迷い込んだことに戸惑う気持ちはない。ただ、このわけのわからない状況が面白くてならなかった。
「そうです。貴方にはわたくしの姿が見えた。ですから、お招きにあがったのです」
「へぇ、お招きか、嬉しいね。で、殺戮の国だっけ? ふふ、ずいぶん物騒な国みたいだね」
「ここは、あなたのような狂人が、殺しあいのゲームに興じる国です」
「狂人? ああ、僕ってやっぱり狂ってるんだ」
 少年は驚いたような、そうでもないような、気のない声音で呟いた。
「もちろんです。狂っていなければ、わたくしの姿を見ることはできませんからね」
「ふーん、まあいいや。なんだか退屈しなさそうだし」
「そうですか。では、まず貴方のお名前をお聞かせ願えませんか?」
 ひどく落ち着いた白兎の声が、礼儀正しく少年の名を問う。
 少年は機嫌よくその問いに答えようとして、首を傾げた。
「うん? 名前……あれ?」
 自分の名前が出てこなかった。
「おや、わかりませんか?」
 白兎の声にはなんの感情も表れない。自分の名前を忘れた少年を前にして、いぶかしむ様子すらなかった。
「そうだな……まあいいや」
 自分の名前を忘れても、少年はまったく慌てない。
 そんな些細なことはどうでもいいとでも言うように、軽い口調で彼は続けた。
「僕はチェシャ猫。退屈嫌いの陽気な猫さ」
 いつものようにその口元に浮かぶ笑みを深くして、少年はきらりと目を輝かせた。

This is the END of “The Son of an Undertaker”……